カラーシャの谷・晶子便り

パキスタン北西辺境州の谷に住むカラーシャ族と暮らすわだ晶子の現地報告。

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パキスタンバザール

パキスタン航空の菊地さんから下記のようなお知らせメールが届きました。
私もできれば3月27日(土)の午後に行きたいと思っています。


皆様、おはようございます。
いつもお世話になっております。
急なご案内ですが(いつものパキスタン流ですね。)
今週末に『パキスタンバザール』が開催されます。
日程は下記のとおりです。私は27日(土)にアテンドしている予定です。
時間がありましたら花見がてら来場してください。
周りの方々にもお知らせ下さると幸いです。
では、宜しくお願い致します。
    パキスタン航空  旅客営業部  菊地慎一

     記
『パキスタンバザール』開催の件
1.日時・・・・・3月27日(土)10:00開場
         3月28日(日)16:00終了予定
2.会場・・・・・上野公園の噴水広場
3.内容・・・・・パキスタン料理の屋台
     ・・・・・パキスタン民芸品の即売
     ・・・・・パキスタンから来日のミュージシャンによる演奏
     ・・・・・パキスタンから来日のダンサーによる演舞
     ・・・・・そのたパキスタンの紹介など

追記・・・万事パキスタン流のため現時点(24日午前)でまだ詳細のプログラムが発表されておりません。演奏や演舞は随時行われるものと思われます。また27日の終了は16:00くらいと思われます。この点ご了承下さい。


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分配し過ぎだよ

09年10月2日
 私の現在の住処のすぐ上に下流の畑用の感慨水路が通っている。そこからの水がもれてきて、うちの作業室や倉庫の壁から水がしみだして困った状況にあるんだが、その話は置いといて、その水路は秋の終わりには川からの水が止められて干上がる。その後、夏の畑地に移住していた半数以上の家族たちが、冬を越すためにバラングル村に戻ってくる。
 水路沿いの、私の住まいの近くに建つ数件の家には子だくさんの家族が暮らし、そこの母親や子供たちは村の中でも「どうしたらこんなに汚れるの?」と驚くほど、顔も手足も服もすさまじく真っ黒けのけ。おまけに彼らは干上がった水路の、ちょうどうちの建物の上側をトイレ場に使っていたんで、私は自分の頭の上にウンチをされているようで、とても不快な気持ちでいた。幸い、去年、おととしの間に村の大半の家にトイレが作られたので(でもトイレに水がなく、水運びがめんどうで、トイレを使わない女性や子供も多いように思う)、ウンチ公害は減ってきている。
 ここからが、本題なんですが、その一番はじっこの家の、わっと驚く汚さだった女の子も10代半ばになって普通になり、この夏祭りに、ブンブレット谷のけっこう有力者の(どら)息子に自家用車で連れられて嫁に行ってしまった。
 その嫁に行った彼女の初めての実家帰りの行事が先日行われた。夫のもとへ行く時は、着の身着のまま、何も持たない状態で行くのだから、新調してもらった服を来て、夫側の親戚や、実家への贈り物と一緒に実家に戻る行事が、カラーシャでの結婚祝い行事ともいえるだろう。
 この日は朝から村中の家に小麦粉が割り当てられ、たくさんの客用タシーリ(カラーシャのクレープ風パン)が焼かれ、(そのためにハンディクラフト研修隊の娘たちも仕事に来なかったぐらい)村人たちは「今日は祝いがあるから」と夕食も作らず、相手方の到着を待つ。今の時期はまだ上流の畑の家に住んでいる新婦の家族も、水路沿いの家に降りてきて、戸口に電球をつけて明々とそこら中を照らしている。村の人たちが準備のために行ったり来たり、あわただしい。
 暗くなった頃に3~4台のジープでブンブレットからのお客が到着する。楽しいことが大好きなカラーシャはすぐその場で踊りだしたりしている。新婦は夫側から持たされた飴やビスケット、ブレスレットを村の子供、娘たちに配る。我も我もとすごい人だかりだ。
 すぐに客にチーズとタシーリが出される。村の家々にも、夫側の女性たちが焼いたクルミパンを2枚と、村で焼いたタシーリとチーズが配られる。私も夕食を作らずに分配を待っていたが、
ジャムシェールが持ってきてくれた「私の分」は大きめのタシーリ10枚とチーズ、もちろんクルミパン2枚も。お腹が空いてたので、がっついてぱくついたが、でもタシーリ1枚食べるのがやっと。その後3日間、私と犬たちはそのタシーリを食べたが(チーズは10月1日の今日まで食べ続けた)、もらったすぐのあたたかくておいしかったタシーリも日が経つと犬もそっぽを向き、結局3割がたは牛のえさとなる。
 これは葬式においても同じことで、日増しに小麦の価格が上昇している今日、けちくさい私は「もったいない」と思ってしまう。家族が多い家では分配されたものは全部食べきるかと思いきや、そういう家でも貴重な小麦タシーリが牛のえさになっている。
 2カ所の客室で徹夜で祝いの踊りが続けられた。うちの犬たちは客に噛み付くといけないからと、つながれたままの状態で、向こうでドンドン太鼓の音が響くのに合わせ、犬たちがクンクンと鳴き続けて(肉を煮ている所に行きたくて)、私も睡眠不足。
 翌朝は、夜に4頭の山羊をさばいて、ぶった切りにし、塩で煮た肉と、小麦粉でとろみをつけた肉汁のごちそう(ワイルドディシュ)が客に出される。もちろん村人にも配られる。私は「タシーリは昨晩たくさんもらったから、肉だけにして」とリクエストする。「昨日のは昨日。今日は新しい分け前を受け取りなさい」と言われる。ほんとうに与えることが好きないい人たちだ。
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  写真:焼かれて持てなされるタシーリのほんの一部

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  クラフト新製品:テーブルセンターとコースターのセット

様々な変化

09年8月13日

今回は長い文で、読み辛い上に、写真がまたアップロードできず、申し訳ないです。

 8月8日、手製のドーナッツ60個と、ビスケット、飴、赤ん坊の服などの土産を持って、今年初めてブンブレット谷のカラーシャ家族を訪問しに行った。私が一緒に暮らしていた20年前、新婚ほやほやだった次男のブトーは、今はブンブレットでバックパッカーの間で一番人気のゲストハウスを経営していて、運転手つきの自家用車(中古のぼろ車だが)まで持つ身分になり、私は彼が送ってよこしたその車でブンブレットに向かう。
 後の席にムスリム男性が4人乗ってきたが、彼らも運賃を払うだろうから、拒否はできない。途中そのうちの一人、サングラスをかけた男性が私を知っていて、けっこう上手な英語で話しかけてきた。一方的に私を知っている人間はこの辺りにたくさんいるので、私の方は知らなくても、「あ、そうですか」と適当に返事していたが、「僕のことを忘れたの?」と相手がサングラスをはずしてもしばらくは誰だかわからなかった。「3日前にオーストラリアから帰省してきたんだ」ときいて思い出した。
 ガイドをしていた彼は10年ほど前にオーストラリア女性と知り合い、結婚してオーストラリアに定住している、谷奥出身のヌーリスタン人だった。どうりで英語がうまいはずだ。メルボルンに住んでいて、タスマニアでまたガイドの仕事をしているという。10年前はガイドにありがちな馴れ馴れしい態度で嫌なヤツだと思っていたが、久しぶりに会うとそれほどでもない。奥さんとは離婚したときいていたが、「2人の子どもは大きくなり、上の子は学校に行っている」と嬉しそうに話していた。
 ブルーン村にいるブトーと3男シャーママッドディンの家族に会って、休憩して、対岸の夏の家に住んでいる長男ヌールシャヒディンと4男アシュラフィディンの家族のところに行こうと思っていたけれど、昼下がりの日差しの中を歩くのがかったるくなり、初日はブトーの家に泊まることにする。スワットやディールのタリバン掃討作戦のために、今年はチトラール地方には外国人ツーリストがほとんど来ない中、ブトーのゲストハウスにはそれでもベルギー人カップルとラホールからの客が滞在していた。
 ベルギー人カップルは教師で今年は夏休みにパキスタン北部だけをまわっているが、一昨年から昨年にかけて1年半、アジアを自転車でまわったという。元気でなかなか感じがいい。ラホールから来たマリック氏は、毎年夏にブトーのところに滞在していておなじみさんらしいが、私は初めて会った。彼はバックパッカーの間では有名な安宿、「リーガル・インターネット・イン」の経営者だ。話をしていて、ホテルを経営するビジネスマンとはタイプが違うと思ったら、やはり彼は以前はジャーナリストだったという。今のホテルも実は彼が創設した新聞社だったそうで、サイドビジネスとして、その片隅にコンピューターを置いて、インターネット・カフェを開いたら、連日、荷物を背負ったバックパッカーが「泊まる場所はないのか」と押し掛けてくるから、新聞社を別の場所に移して宿屋にしたと、そのいきさつをおもしろく話してくれた。
 マリック氏は映画の仕事にも関わっていて、昨年韓国のテレビクルーとカラーシャ谷に来たとき、私にもインタビューをしようとルンブールに行ったが、村の人々に「アキコは外の人間が嫌いで、怒るから無理だ」と言われて諦めたらしい。その代わりに葬式にぶつかって、いいショットを撮ったからよかったとか。

  ブトーの家族は夫婦と子ども6人、ママッディン夫婦と子ども2人、それに居候の高校生たち、車の運転手、ゲストハウスのツーリストたち、増築作業の大工さんたちと、いつも20人から30人の大所帯になるが、ブトーの奥さんとママッディンの奥さんだけで賄いをしているのは感心だ。彼女たちはその合間に畑の仕事もやっている。牛の世話はブトーの3女が手伝うが、その都度20ルピーを払わされるというのは感心しないが。

 翌朝、朝食の後にママッディンの奥さんと一緒に、対岸上流の夏の家に行く。あいにく、長男ヌールシャヒディンの奥さんは前日に生理になってこもり小屋に寝泊まりする身で、家のそばの畑に作業をしにきていたが、家には入れずちょっと残念。もう一つ残念なのは、冬の祭りに結婚したヌールシャヒディンの次男に祝い金を渡そうともってきたのに、彼も夏の放牧場に住みこんでいて会うことができなかった。祝い金は一人娘のナシブジャンに預け、くれぐれも父親に見せないよう念を押しておく。そうしないと、「ちょっと借りる」と持っていかれたまま、永久に戻って来ないことは目に見えている。
 家に行くと、子どもたちがインド映画のDVDを見ていた。朝の10時なのに。日曜日だからかもしれないが、何と言うことだ!と言いながら、ナシブジャンがいちいちストーリーを説明してくれるので、私もしばらく見るはめになったりして。
 アシュラフディンの奥さんとナスブジャンが用意してくれた、トマトと玉ねぎがたっぷり入ったオムレツとヨーグルト、小麦粉のカラーシャパンのランチをとって、昼寝してから、近くの親戚の家を訪問。
 ヌシャヒディンの従兄弟にあたる彼は、私がブンブレットに住んでいた頃はカラーシャだったが、その後ムスリムに改宗した。自分で大きい家を建て、ムスリムの奥さんをもらって4人の子どもがいる。広いベランダの前の庭には、りんごやアンズ、ぶどうの木が実をつけ、庭の隅には山羊がいて、その向こうには牛小屋が見える。石壁造りや大工仕事ができるので、必要な現金収入は入るし、自給できる畑も庭もあって一つの理想的な暮らしともいえるだろう。
 その彼が、「ムスリムは複数の妻をもてるんで、家の仕事を手伝ってもらうためにも、もう一人奥さんがほしいな」と冗談をいったので、「だめだよ。手伝うというよりも、またたくさん子どもができて、よけい大変になるよ。だいたい、子どもが増えたら、分けてやる土地もなくなっちゃうよ」と私が言うと、「土地は大丈夫。まだまだたくさんあるから」と余裕だ。ヌールシャヒディンの一族はみんな広い土地を持っていて豊かだなとつくづく思う。

 3日目、ナシブジャンを連れて、再びブトーの家に戻る途中、ヌールシャヒディンが新たにAKRSPの援助で始めたという「コンピューター教室」に寄ってみる。中古のコンピューターが4台ほど置いてあったが、建物は掘っ立て小屋で、床は土のまま、これじゃあ土埃でコンピューターがすぐ壊れそうだ。だいたい電気がルンブールに比べてはるかに不安定で弱く、電話線もない状態でコンピューター教室を始めること自体が無理な話だ。でも、今さら言ってもしょうがないんで、「早く電話線を引くよう頑張ってよ。そうしたら、私もインターネットしに来るから」と発破をかける。
 その教室のすぐ上のホテルを経営しているファイジが顔を出したので、昨年彼が催したガンダオ祭を撮影したDVDを渡す。そしたら、「コーヒーをごちそうする」というんで、ヌールシャヒディンとナシブジャンとでファイジのホテルへ。ベランダでコーヒーを飲みながら、「発電所のタービンと発電機を新しく取り替える」ことが早急の問題だと話しているところへ、ホテルの唯一の泊まり客が起きて来た。(午前10時半過ぎていたが)
 ひげと髪ぼうぼうの木こりのようなこのアメリカ人は、去年も長く滞在していて、今年はホテルへ「冷蔵庫」のみやげを持ってやってきたという。舌を巻きに卷く典型的なアメリカ西部のアクセントの英語で、最初は「クール」を連発しながら(例えば、ヌールシャヒディンがこれは僕の娘だと紹介すると、「クール」。私が20年カラーシャ谷に住んでいるというと、「クール」という具合)、その後は、彼が何かこちらで援助活動をしたい、援助金を集めるのは難しくない、しかし、コンテナ(援助物資の?)がカラチに着くのが問題だ、てなことを、ねばりのある大声でまくしたてる。こちらが話に入っていく隙も与えない勢いの中、やっと私が、ちょうど水力発電の話をしていたばかりだったので、「何をやるにしても、まず安定した電気の供給が必要だ」と言うと、「確かにそうだ。それにはダムを造らねばならない」と言うのだ。「ダムなんか造れば環境破壊になるし、だいたい、ここの土地はそれぞれ所有者がいるんで、無理だ」と私。ひげの彼は、「そんなたいしたことない。ちょっと移動させて新しく土地を与えればいい」「そんな土地がどこにあるの?」と私が少し反論しても何のそので、ああだこうだまくしたてる。「あー、こりゃだめだ。私とまったく考え方の違う人間と話しても、時間の無駄だ」と気が付いたが、勝手な話がわんわん続いていく。ナシブジャンはすでに席を立ってしまったが、私に向かって話続けているんで、なかなか腰を上げるきっかけをつかめず、往生した。後でナシブジャンが、「あの人の話声をきいてたら、頭がぐらぐらしてきて、座ってられなかった」と言っていた。
 
 それやこれで、久しぶりにカラーシャの家族に会い、村の人たちに会い、新しい人たちにも会って、ブンブレット行きはなかなかおもしろかった。

14年ぶりのガンダオ祭

11月12日の夕方から雨が降り出し、そのまま夜は雪になる。初雪だ。翌朝、ジャムシェールが増築した2階の作業室の屋根の雪かきをする。2階ベランダの外(1階の多目的ホールの屋根になる。)の雪かきをしていないので、どうしてかときいたら、雪かきのためにそこを踏んだら、雨漏りよけに土の間に敷いたビニール・シートが破れるからだというのだ。土の中に混ざっている石に上から圧力がかかるとビニールが破れてしまうという。どうして、ふるいに掛けた土でビニールを覆わなかったのかと、首をかしげてしまうけど、今更、屋根作業の責任者のジャムシェールに文句をいったところで、どうしようもない。
 そのベランダの外にぐしょぐしょに溜まった雪解け水が、その次の日の夜、つまり14日に、再び降り出した雨と共に下の多目的ホールに漏り出してきたので、ハンディクラフトや手すき紙の展示品を避難させ、雨漏りの箇所20カ所の下に、持っている器を総動員して当てがう作業などで、夜中の3時すぎに床に着く。
 実はこの日の昼間、ボンボレットのブルーン村から使いが来て、バジゲ一族のファイジが父親と叔父さんのガンダオを建てるのでバジゲのジャミーリ(一族の女性家族)は翌日集まるようにとの通達があったのだ。私は20年前にバジゲのヌシャヒディンと姉弟の契りを結んだので、私もジャミーリに数えられ、うちの村からは私とシャイバのおじいさん(亡くなった彼の母さんがジャミーリだった)だけがみんなより1日早く呼ばれていた。
 しかし、天候は悪いし、道もぬかるんでいて危ないし、ホールの雨漏りも気になるし、睡眠不足もあるしで、今ひとつボンボレットに行く気にならず、うじうじ、むじむじしていた。でも、ジャミーリが持って行くクルミパンも20~30枚焼いてもらっているし、せっかく呼ばれて行かなかったらバジゲ一族のジャミーリを放棄することになるので、行くことにする。

ガンダオとは亡くなった家族(主に男性)の木彫りの記念像のことで、これを建立するには、カラーシャ三谷から人を呼び、葬式と同じ規模で歌と踊りをガンダオに向けて行ってもらい、建立者はお返しとして、チーズと山羊の肉の饗応をする。車で行き来ができる今は、以前の数倍の人が集まる。カラーシャだけでなく、近辺のイスラム教徒もたくさんやってくる。したがって相当の費用がかかることになり、ガンダオを建立する人はめったにいない。14年前にビリール谷で行われた以来のことだ。
今、夜中の12時10分。明日チトラールに行く準備もまだしていないので、今回は申し訳ないけれど、これまで。
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写真:若者がガンダオを背負って踊ると、会場はいっそう盛り上がる。

8月は活気のある月だった。

8月28日
カラーシャ谷は5月半ばからは観光シーズンなのに、うちの村にあるサイフラー・ゲストハウスはずっと閑古鳥が鳴きっぱなしだった(7月から長期滞在している木村さんは別として)。8月に入ってようやくお客が来出し、8月半ばになると、22日のウチャウ祭めがけて来る客で、一時は部屋がいっぱいになり、お客を断ることもあった。
 サイフラー・ファミリーにとって多少のまとまった現金収入が入ったと思うと、いつも世話になっている私を含めた村人たちも安堵する。なにしろ、サイフラー議長は週に2、3回、裁判やらミーティングでチトラールに行かねばならない。そのほとんどが共同体を代表したものなのに、弁護士の支払いなどの経費の多くを負担せざるを得ない状況だ。長男のヤシールもしょっちゅう村の病人を病院に連れていっていて、そういった薬代や交通費もバカにならないと思う。

 8月1日にデンマークからビルギッタがやってきた。彼女は毎年7月に一ヶ月滞在するのだが、今年は6月にイスラマバードでデンマーク大使館爆破事件があって滞在はキャンセルになるかと思ったが、彼女のバラングル村やサイフラー一家への愛情と熱意は何よりも強くて、一ヶ月遅れでやってきた。彼女は2000年ぐらいからカラーシャを題材にしたビデオ・フィルム制作に精を出していて、これまでに何回かフィルムフェスティバルにも出して賞をもらったりしている。60代半ばの年齢なのに創作に向けてのエネルギーはまねができないくらいだ。そして新しく編集した作品を泊まり客を捕まえては自分のパソコンで披露する、そのエネルギーもすごいと思う。自分に関してのものを人に見せたり、宣伝するのが苦手な私は爪の垢でも煎じて飲んだ方がいいかもしれない。

 8月11日には佳世さんがやってきた。佳世さんはおよそ3年間北極圏近くのカナディアン・インディアン(先住民)の村で、教育および伝統文化・言語の保存のためのボランディアをやっていた女性で、日本で職を探すまでの間ルンブールに遊びにきたのだ。バンコク経由でインドまで飛び、インドのダラムサラ(ダライラマが住むチベット難民の町)で、チベット人の友達に会い、ダライラマの講義を拝聴してから、国境を越えてパキスタンに入り、ラワルピンディとチトラールに一泊ずつ泊まっただけで超特急で移動してきたというから、これまたすごいバイタリティの持ち主だ。カラーシャ谷を訪れるのは5、6回目なので、ここら辺りの状況もわかっているし、まず旅慣れているんで、逆に有意義な旅の情報を教えてもらえる。

 佳世さんは、私が力を入れているカラーシャの織りにも興味があり、今回はシュモン織りとチトローヤック織り(皮靴の足首を縛る紐)を習得。特にチトローヤックは織りが複雑だし、私が織る以外、村では今や織る人がいなくなってしまっているけっこう貴重な織りなのだ。佳世さんは帰国したら、小物作りが大好きな横浜の藤田さん(われわれの活動の支援者でもある)にも教えるというし、ビルギッタにも教えたので、チトローヤックはカラーシャ好きの外国女性の趣味の織り物になったりしてね。
 苦手なパソコンの使い方(DVDの焼き付けなど)も、佳世さんやイタリアに生まれて育ったなおきさん、イタリア人ベッペたちから教えてもらってほんとうに助かった。
 なお、佳世さんはこちらから帰国したあと9月半ばに、静岡県掛川市郊外の静岡カントリークラブで、「カナディアン・インディアン」についての現状報告会を催すので、近郊の方はぜひ足を運ばれるといい。入場料は500円(資料代として)。

 8月22日はウチャウ(夏祭り)は例年通り、チーズをたくさん食べた後、グロム村にみんな集まって歌と踊りが開かれた。グロムの急な坂を登り下りするのは人工股関節に支障がこないかと
少し躊躇したが、踊り場に行ったら、なんだか踊れる気がしてテンポの早い踊りとゆっくりテンポの踊りに1曲ずつ参加した。来年はもっと踊るぞ。
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写真:佳世さんも踊りの輪に入って。

8月31日
 2階の建設作業は祭りや、ボンボレットで葬式が2回あったりして、一時中断していたが、今日現在、石壁の第一工程は終わっている。大工さんは天井の板張り作業をしているが、もう少しで終了しそうだ。
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写真:2階の増築、ここまでできたよ。
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