カラーシャの谷・晶子便り

パキスタン北西辺境州の谷に住むカラーシャ族と暮らすわだ晶子の現地報告。

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あんまり書きたくない話題

09年9月17日
 ついに起こってしまった。外国人誘拐事件がカラーシャ谷で。
つい先日(8月)このブログで、ボンボレット谷ではギリシャ人のNGOが大規模に行き過ぎるほどカラーシャの援助活動を行っているとお知らせしたが、その筆頭株のギリシャ人、アタナシアスさんが9月8日未明、カラシェニコフを手にした大勢の覆面の男たちに連れ去られた。
 毎年5月から11月頃までボンボレット谷で、建築工事や文化、教育、医療援助にたづさわっていたアタナシアスさんには、地元政府の要請でここ数年間は、安全のために数人の警察官が警備にあたっていたが、当日いた3人の警察官のうち1人は死亡、あとの2人は賊の数が多すぎるのを見て、畑に逃げた。(警察詰め所に連絡するために)
 9月8日はボンボレットの南に位置するビリール谷では葬式の最中で、ルンブール谷やボンボレット谷からも大勢の人たちが出向いていた。うちのスタッフ、ジャムシェールも私に内緒で7日夕方から行っていたという。夜明けの頃、そこへ数台の車で大勢の警察官たちがやってきたので、ジャムシェールたちは事件を知ったという。アタナシアスを連れた賊がボンボレットの尾根を横切って、ビリールに行った可能性があるということで、警察は捜査にやってきたが、手がかりはなかった。
 ジャムシェールたちは葬式が終わらぬうちに、外国人である私のことが気になったということもあって、急いでルンブールに戻ってきたという。ビリール経由で事件を知ったバラングル村の人たちは、まず、アタナシアスさんのそばで働いていて、彼のNGOが建てた総合ビルディングで寝泊まりしているサイフラーの末弟ハヤットのことがどうなっているのか心配する。そばについていたポリスが殺されたくらいだから、ハヤットは殺されてはいなくても負傷しているかもしれないのだ。親戚のお婆ちゃんはがたがた震えている。すぐに、兄弟と親戚の男たちが谷に止めてあった車をチャーターしてボンボレットに向かった。
 昼ごろボンボレットに行った彼らは戻ってきて、普段アタナシアスのスタッフ4人はビルディングに寝泊まりしているが、昨夜はみんな村の家で寝ていて無事だったという。しかし詳しい情報はなく、賊は何者か、アタナシアスさんの居所はどこか、生死は?など、わからずじまい。
 村のみんなは揃って「ヌーリスタン人のしわざだ」と言う。前々からアタナシアスさんの援助活動のやり方は周りのイスラム教徒から、「カラーシャだけに至れり尽くせりの援助をして、不平等だ」というクレームが飛び交っており、「あのビルディングに爆弾をぶっ放してやる」というぶっそうな話もあったらしい。
 私ははじめから、身代金目的の誘拐で、賊はタリバン、道案内に地元のヌーリスタン人が関わっていると思っていたが、やはり、数日してから、アタナシアスさんは国境を越えたアフガニスタン側のヌーリスタンの村に捕われているとの情報があった。チトラール警察はボンボレット谷とルンブール谷の奥にあるヌーリスタン村の誘拐に関わった男たち十数人を、アタナシアスさんが捕われている村に話し合いに送り、アタナシアスを無事に戻せば、誘拐に関わった者でも逮捕しないという交換条件を出した。そのタイムリミットが13日であったが、ジルガ(長老会議)にかけていて時間がかかるということで、未だに結論がでていない。
 カラーシャたちは「アタナシアスはいつ戻ってくるんだろう」と単純に言うけど、誘拐されたのはギリシャ人だし、捕われているのはアフガニスタンだから、これは国際的な問題となり、国同士で話し合いがされているはずだ。国境も違法で越えているので、そのルートで戻って来れるわけがない。解決すれば、多分カブールに連れていかれて、ギリシャの大使館があればそこで保護され、飛行機でイスラマバードに行くことになると思う。
 何にしても、新聞もインターネットも電話もないカラーシャの谷では何もわからなくて、ただただ辛抱して、アタナシアスさんの無事を祈るのみである。

 この事件で、何の役に立たなかった警察やスカウト(軍)に対して、一部のカラーシャたちがチトラールの町で抗議デモをしたので、気を悪くした警察署長が、「そんなに言うんなら、カラーシャ谷に滞在する外国人のために警官4人つけてやる。」と宣言。1人に対して4人の警官だから、外国人2人だったら8人の警官ということになる。その警官たちの食事代は外国人持ちだから、そこまでして滞在するツーリストもあまりいないだろう。
 せっかく、ペシャワールからの陸路が外国人にも開いて、ツーリストがぼちぼち来始めたというのに、サイフラー・ゲストハウスでも、事件が起きたその日に英国人カップルが、2日後には日本人カップルが予定を早めて谷を去った。
 私にも警官をつけると警察から言ってきたが、村の人たちが「アキコはローカルだから問題ない」と説得してくれたので、私は普段どおり生活している。ビリールに数日前から滞在しているM女史には、何と8人ものセキュリティがついているそうだ。(警官4人、スカウト2人、国境警備隊2人)何でも、M女史は「警官はうっとうしくて嫌いだけど、新しいプロジェクトの件で、警察署長のサインをもらわなきゃならないので、今は警察と喧嘩できない」ので、目をつぶっているらしい。彼女は長くてもカラーシャ谷には月に4、5日しか滞在しないから、たいした負担ではないだろう。

 いやあ、こういうニュースをブログに載せると、「そんな危ないところにいないで、早く日本に戻ってこい」と言われそうで、あまり紹介したくなかったけど、でも、まったく無視するわけにもいかず取り上げました。まあ、様子を見て、もし状況が悪くなるようだったら、早めの帰国、あるいは一時カラーシャ谷を離れることも考えています。どっちにしても2年に渡って作業中の2階の増築が終わってからですね。現在、2階のトイレをリサイクル材を使って作っています。洋式便器を設置して、セメントを張って、水道と電気をつけるまではここを動けません。

ハンディクラフト作りは
 ハンディクラフトの作業隊は、谷にくるツーリストがいないので、今月はレギュラーで2人(縫い作業1人、織り作業1人)来てもらっていました。その分、私自身は新しいクラフトを開発する余裕がでて、なんやかんや作っています。基本は手織りのシュモンと、ミシンでの下糸模様縫い(布を裏返しにし、ボビンに細毛糸を卷いて縫う。)をくずさずに、新しいデザインを試行錯誤しています。チトラールで材料を仕入れたら、また人数を増やす予定です。ひょっとして谷を早めに出るんだったら、日本に持っていくクラフトを確保しとかないとね。
 下の写真は、伝統織物の保存のために、手に入れた男性用のコートです。山羊の毛で織ったもので、以前のカラーシャの男たちは、山羊の放牧の時にこれを着ていました。織ったお婆ちゃんはすでに他界。アクリル毛糸で模様を縫ってあったのを、本来の手染めの羊毛で縫い直してもらいました。
IMG_3491.jpg

モデルはうちのスタッフ(すましまくって、気持ちわるー)
 

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チトラールの歯医者さん

09年6月24日
夕食の後、爪楊枝で歯をほじっていたら(誰も見ていなかったので)、「あれ、えっ、何、まさか!」20数年前に詰めた歯の金属の詰め物がスカーンと取れてしまった。すぐに取れたフィリングを洗ってティッシュに包んでジッパー付きのビニール袋に保管したが、さて、どうしよう。でもこの場合は考えたってしょうがない。すぐさまフィリングを歯に詰め戻さないと、取り返しのつかないことになる。
 翌朝、チトラールへの乗り合いジープに乗り込む。偶然にもグリスタンと末弟のジャミールも「歯が痛いんで、歯医者に行く」と言う。歯医者への道連れができてよかった。
「腕のよい歯医者がチトラールの手前のジョグール村にクリニックを出しているときくけど、そこに行った方がいいかね」とグリスタンにきくと、「だめだめ、私はあそこには何回も行ったけど、ちゃんと治療してくれないよ。金は高く取られるし、私の歯は痛いまんま」と言うんで、チトラールの市民病院に行くことにする。
 市民病院の受付で5ルピーずつ払って、10時前ごろに歯医者さんの部屋に行く。担当のドクターはまだ来てなかったので、数日前に入院したグリスタンのおじいちゃん(正確にはおじいさんの弟)を見舞いにいく。薬のために尿意が頻繁だからと、個室に入っていたおじいちゃんの病気は、胸が悪いというのは確かだが、まだ何の病気かわからないらしい。本人はすっかり(精神的に)弱っていて、話さえできない。こちらも寝ている病人に何もやってあげられないので、弟のジャミールを看護で来ているグリスタンの兄さんに預けて、グリスタンと再び歯医者の診察室に戻ると、ドクターは出勤していた。
 「詰め物が取れたので、詰め戻してほしい」と頼むと、「一度取れたのを詰め戻すのは難しい。」と渋っていた男性ドクターは診察して、「一応やってみましょう。この病院に置いていない特別なセメントを使いますから、10分間、待っててください。」と私に言ってから、助手を病院の外にある彼のクリニックに使いに出した。「よかった。」私は診察椅子から下り、次にグリスタンが診察椅子に座った。
「あなたは中国人?」グリスタンの歯の状態をドクターに説明しようとしている私の後から、窓際の大きな机に座っている白衣の女医さんが声をかけた。「日本人です」と振り返って言う。「どうぞ、こっちに来ておかけなさい」と机の向かい側の椅子を勧められた。
「チトラールで産婦人科以外の女医さんはめずらしいですね。」と私が言うと、
「私の名はジャスミン、歯科外科医(という日本語あるかな?)なの。ほんとうはヤスミンだけど、英語圏ではジャスミンというのよね。私の家族のほとんどは外国に住んでいて、私自身もつい最近、アイルランドのダブリンで医者やってる姉さん夫婦のとこから帰ってきたばかりなの。私の家族、親戚はみんな大物ばかりで、オバマ大統領もヒラリー・クリントンもうちの家族のことは知ってるのよ。チトラールでも私のこと知らない人はいないのよ」と、私の質問には答えないで、ききもしない自分の家族のことをしゃべり出す。
「あなたはチトラール人なの?」ときくと、「そうよ。でも生まれて育ったのはペシャワールで、転勤でチトラールに来たの。でも今月いっぱいでここの仕事も終わり。そしたらアメリカに行くの」「ふうん、そうですか。」と返事するしかない。その後も、ダブリンの姉さん夫婦が出してるというジャーナルのことや何やら、非常に個人的なことを一気に話す。
 こういう女性もめずらしいから、写真を撮っていいかときくと、「もちろん」と言う。デジカメを向けると、「あっ、待って」と頭に被っていた白いショールを外して、頭を横に振って髪の体裁をつける。彼女はチトラールではあまり見ないショートヘアーだった。
 グリスタンの虫歯はレントゲンを撮らなければならず、診察室を出てレントゲン室に行く途中、グリスタンが言う。「あの女医さんは頭おかしいよ。先日私が来たときには、地元人の私にウルドゥー語で話すんだよ。今日来たらチトラール語を話しているんじゃん。それにだいたい、自分の自慢話ばっかりして、仕事してないじゃん。写真撮る時も、わざわざショールをはずすし、そんなチトラール女性がどこにいる?へんだよ」「確かにへんだよね」と私も納得した。
 私の歯の詰め物は無事に元の場所に戻り、男性ドクターは自分のクリニックから持ってきたセメントの代金も受け取らなかった。グリスタンの虫歯は進行状態がひどくて、この病院では治療できないので抜歯するしかないと言う。「じゃ、あなたのクリニックでは治療できるの?」ときくと、「できる」というんで、午後2時から開く彼のクリニックで治療してもらうことになった。しかし、男性ドクターは午後3時になってようやくクリニックに現れ、来てからも、携帯電話で私用のおしゃべりを延々とやっていて、グリスタンは時間切れで治療してもらえなかった。
 後で、マウンテン・インのマネージャーたちに、「チトラール病院のヤスミンという女性の歯医者さんを知っている?」ときいたけど、「知らないね」と言われた。
 

写真:ヤスミン女医さんと患者さんIMG_3085.jpg


よくわからんトレーニング(パキスタンの典型的な支援プログラムの現実)

2009年6月8日

 今、午後7時。室温16度。6月だったら、都市部は猛暑でうだっているはずなのに、こちらはこの3~4日間天気が悪くて、すっかり冷え込んでいる。
 5月28日にチトラールで静江さんを見送り、5月11日から村のサイフラー・ゲストハウスに滞在していたムシバッタジー(バラングルー村が好きになり、ここのところ年に2度、日本からダイレクトで村を訪れている日本人元バックパッカー)も今朝村を去った。静江さんは来年1月に、ムシバッタジーは今年の11月末ごろにまた来るので、「じゃあ、またね」という軽い感じで別れたけど、考えてみれば、北陸地方に住んでいるムシバッタジーなんか、日本ではよっぽどじゃないと会えない。会わない。ということは、彼なんかは日本の友達というよりも、バラングルー村の友達と言った方が近いのかなあ。

よくわからんトレーニング
 5月11日に村の有力者であるサイフラーさんのところに、アガ・カーン農村支援計画(Aga Khan Rural Support Programme)チトラール支部から女性コーディネーターがやってきて、居合わせたサイフラーさんの娘グリスタンに、ミーティングを開くので村の女性を集めるよう指示。20人ほどの女性が集まったところで、「手芸のトレーニングをここで行うけど、あなたたち、やる気ある?」とコーディネーター。村の女性たちは内容がわからぬまま、うんうんとうなずく。「じゃあ、1週間後の18日にトレーニング官を連れてくるから、この村から15人、グロム村から10人、ミシンを持っている娘たちを集めといて」とグリスタンに言い残して帰っていった。
 グリスタンは、「春祭りが終わって畑仕事にかかる時期に集まる女性は少ないだろうし、だいたいカラーシャの娘が新しい試みに挑戦するなんて無理な話だ」と、根っからその気がなかったので、18日にコーディネーターが来たときは、誰も集まらなかったが、再度、22日にトレーニング官と来た時はサイフラーさんに頼み込み、彼のゲストハウスの2部屋を使って、グリスタンに20人ほどの娘たちを引っ張ってきてもらって、2週間のトレーニング教室が始まった。
 トレーニング官はパンジャブ大学でテキスタイルを学んだという、チトラール地方のトルコー出身の口数少ない男性。集まった20数人の、花も恥じらうじゃなくて、花もまったく恥じらわないカラーシャのにぎやかな娘たちにどういう風にトレーニングを行うのか、うちの5~6人のハンディクラフト研修隊をコントロールするのもけっこう大変な私としては興味あるところ。
 何か小物を作らせるのかと思っていたが、どうやら集まった女性たち布地を渡してカラーシャ服を縫わせるよう。別に今さら、カラーシャの娘が作れるカラーシャの服を縫わせなくともと思うのだが、どうやったらきれいに縫えるか等の技術の手ほどきをするのかもしれない。でもトレーニング官(男性)は何を教えるわけでもなく、言葉少なく座っている。村の娘たちはわいわい騒ぎながら、自分たちのやり方で裁断して、いつも通りにミシンで縫い始めている。私が、「ここの女性たちは黒い布の上を白い糸で縫うんだけど、黒い糸を使った方がいいんじゃないの?」と彼に言ってみたけど、たいした反応がない。
 そんなことよりも、服の模様に新しいファッション風を吹かせたいらしく、パンジャビ・ドレスに使われる刺繍用のビーズや細いレースをたくさん持ってきていて、それらをカラーシャ・ドレスに取り入れてもらいたいらしい。また、近頃とみにすそ模様の部分が高く広がってきたのを指摘して、もっと模様の高さを少なくするよう娘たちにリクエストするのだが、娘たちは「縫った服を着るのは私なんだから、すそ模様が少ないのは嫌だ。私たちの勝手で縫いたい。」と、ことごとく却下。彼も諦めて、黙って座っているか、すぐ調子がおかしくなる各々のミシンの修理を一生懸命やっている。
 供給した毛糸はオレンジと蛍光黄の2色だけだったし、毛糸をたくさん使わず、早く仕上げるためには花模様がいいということで、誰もが同じ2色の配色で同じ花模様を縫ったので、何だかユニフォームみたくになって、私から言わせると個性がなくて気持ちが悪い。次の祭りウチャオで、同じ配色と模様の服を着た娘たちが横にずらりと並んで踊っている様子を想像してごらん。
 月給4万ルピーのトレーニング官(本人が言った額)が2週間つきっきりで(宿泊費もかかる)、毎日ランチを25人分出し、布や毛糸代をいれると相当な経費を主催者側は使ったことになるが、その結果は、わざわざ教えてもらわずとも縫える服作りだった。
 いったい何のために行ったのかよくわからないトレーニング。それでも、主催者側から言わせれば、「なかなかよくできた」「ボンボレットやビリールでやった時よりよかった」というから、ますますわからない。参加した娘たちは縫った服をもらえたし、毎日ランチ(油ごはんとカレー)が出たので、まあまあ悪くはなかっただろうがね。はてさて、ほんとうに得したのは誰なのだろうか?

2階の紙すき作業室の竃(かまど)ができた
 5月の末に、請負いで2階のハンディクラフト作業室と紙すき作業室、そしてベランダの床のセメント張りをやってもらったが、予定より必ずといっていいほど遅れる作業が、思ったよりも早く進んで、けっこうな面積があったのに5日間で終わった。その作業をやったセメント職人が、竃と流しも自分がやると言ったので、やってもらうことにした。今度は請負いではなくて、日当で払い、昼食とお茶をこちらが出す約束をした。日当600ルピーとべらぼうに高いが、床作業のペースでやれば2日で終わると言われたので、オーケーを出した。
 そうしたら、請負いの時は、昼のお祈りもせずに4時まで働いていたのに、日当になったら、お祈りはするわ、2時半で帰るわで、何とちゃっかりしていることか。それでも5日間でできたので、まあ、よしとせねばならないだろう。おかげで私は現場監督、お茶とランチ作りで忙しく、ハンディクラフト研修隊の活動も一時休業している。(でも、私は折々に暇をみては、手織り紐のペン入れや携帯電話入れのサンプルを作っています。)

 IMG_3010.jpg
 写真:かまどを作るアユーンの職人さん
2階の増築作業は、自分の家の感慨水路の修理でずーと休んでいる大工さんを呼んできて、階段と棚、机などの作業を残すのみとなった。その後に個人用に裏に西洋式便座を設置したトイレを作ろうかと思っている。(人工股関節だとアジア式の便器は使えず、今、不自由しているのでござい。)8月までには全部できるだろうな。はい、できる。(自分自身でゆるぎない確信をしないと、ここでは予定通りにいかないのです。)
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