カラーシャの谷・晶子便り

パキスタン北西辺境州の谷に住むカラーシャ族と暮らすわだ晶子の現地報告。

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一時帰国の途に

09年10月18日
 チトラールの町を歩いていると、チトラールの人たちは、「ケチャー アスス、ベッチ(ご機嫌いかが?おばさん)」と声をかけてくる。大半は知らない人だ。しかし、一見私より年上に見える白髪混じりのひげのおじさんから「ベッチ(おばさん)」と言われると、確かに自分はおばさんということは認め、相手は好意で言ってるとわかっていながら、言われたとたんにむっとくる。だいたい「ベッチ」という言葉の響きが好きでない。カラーシャ語で「ナーナ(おばさん)」と言われたら、やさしく「なーに」と返事できるけど。
 昨日、イスラマバードまでの飛行機の切符のためにPIA(パキスタン航空)の事務所に行ったら、私が入ったとたん、待ち合い席にいたおじさんが、「ベッチが来た。ベッチが来た」と大声で叫ぶではないか。他に女性はいないから、明らかに私に言っているのだ。
しばらくするとまた、「ベッチが来た。ベッチが来たよ」と叫ぶ。きっと少し頭がおかしい人だろうが、あまりにも何回も何回も繰り返されると、カウンターの椅子に座っていた私は苛つき、「チョップ(うるさい)」と言ってしまった。しかしそれでも男はまた「おばさんが来た」を繰り返す。切符を手に入れてカウンターから去るときも、「おばさんが来たよ、おばさんが来たよ」と言うので、私は今度は男をじろりと見つめて「うるさいぞ」と言った。そしたら、その中年の男は顔中を喜びいっぱいにしてにっこり笑った。
男の勝ちだった。

 おばさんと言われるようになった私の両親は、だから当然高齢になっている。パキスタンからの電話料金が昔に比べると格段に安いということもあって、最近は毎月チトラールの町に出ると、九州の母に電話するように心がけているが、8月末に電話した時に、父が肋骨にひびを入れ、母1人で大変だときいた。その後、アタナシアスの拉致事件が起き、今も解決されていない。それ故、カラーシャ谷に来る外国人ツーリストは、安全確保のために警官をつけなければならない状況になった。私は地元人ということで警官こそつけてないが、以前よりは安全環境は悪くなっていると言わねばならないだろう。私の今年の予定の仕事であった2階増築の大工さんの仕事も終わり、ルンブール谷を出る条件がずらりと揃ったんで、早めに帰国の途に着くことにした。
 冬に静江さんが来るという話は、アタナシアス事件で今のところキャンセルになったんで、来年春まで半年間は、多目的ホールはジャムシェールとヤシールだけで運営してもらう。この前の冬も彼らだけでライブラリーを開き、特に1月2月の冬休みは、本を読むだけでなく、学校の教科書を持ち込んで復習をする生徒もいて、ライブラリーがとても役に立ったというので、あまり心配はしてないが、問題はハンディクラフト活動だ。
 本来の予定では12月に谷を出るつもりだったんで、とうもろこしや果物の収穫作業が終わり、女性たちに時間ができる10月半ばから11月いっぱいで、冬の私の留守中にクラフト隊にやってもらう作業の段取りを立てようと思っていたが、それができなくなった。それで、谷でも日本でも確実に売れる品物、山羊のコースター、シュモン(手織り紐)のコースターだけを、グリスタンとルビザールに作りおきしてもらうことにした。そのために、見本の写真、布、裁断の型を用意し、アスマールの母さんにはサイズを指定したシュモンだけを織ってもらうことにした。多くの仕事を依頼できず残念だが、仕方がない。

 ということで、この2週間はえらく忙しかった。Nさんと静江さんのクルミの収穫をして、殻向き、日干し(Nさんのクルミを売ったお金は活動費に寄付)。サイフラー・ゲストハウスの作業をしていた職人を無理矢理お願いして、2階に洋式便器と水道の設置をしてもらい、谷の下流の家からぶどうを買って、ワインを仕込み、活動費やクラフト売上げの収支計算、大事にとっておいたわかめ、魚粉、缶詰などの日本食を胃の中に片付け、その間に2匹の犬が計12匹の子を産んだ。
 帰国の荷物、小型のキャリア付き布のケースは今年作ったクラフトでいっぱいになり、折りたたみのバッグに服類と、うちで穫れたりんごとクルミ。今回はバンコクまで飛び、バンコクで日本までの安いチケットを買う予定なんで、あまり多くの荷物は持てない。ビデオカメラも置いていくことにした。そのビデオカメラで、ヤシールに冬のライブラリー活動を撮影してもらうよう頼む。
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写真:ワインの仕込み。穢れのない少年(童貞)が足でぶどうを踏む。

高校生に教育補助金
 ルンブール谷には高校がなく、高校に進学する生徒はボンボレット谷に行かねばならない。ボンボレットの親戚の家に居候して、高校に通い、月に2、3回、週末にルンブール谷に戻るわけ生活をする。ギリシャの援助ほどは出せないが、行き来するジープ代ぐらい援助したいと前から思っていて、静江さんとも話し合いをしていたが、静江さんが滞在していた今年の5月の時点では、小学生から大学生までカラーシャの全生徒に政府からの奨学金が支給されるという話があったので、そのままにしてあった。
 しかし秋になっても、その奨学金は来ず、今年は無理ということがわかったので、経済的に難儀している家の生徒で、成績が優秀な生徒、高校1年生、2年生の男女各1名ずつ計4名に、私たちの活動費から毎月300ルピーずつ、来年3月まで冬休み以外の4ヶ月間支給することにした。
 今の時代300ルピーは職人の日給1日分しかならないが、しかし現金収入のない家にとっては助かるはずだ。支給する生徒たちには、冬休みの間、ライブラリーの手伝いと、村のお年寄りたちに、インタビューをしてテープに記録するように頼んだ。インタビューの内容は、自分の人生について語ってもらい、好きな歌、気に入った物語も録音してもらう。
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写真:高校2年生ナシールシャルと1年生エリカビビ

 
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 村の人口調査

15年ぐらい前に村の人口を数えたことがあったが、当時は310人ぐらいだったと思う。その後確実に人口は増えてる感触はあったが、果たしてどのくらい増えているか、きちんとしたデータがないので、また自分で調べなきゃと思っていたが、暇がないだけでなく、近年生まれた幼児たちの名前など覚えられなくなっていることもあって、そのままになっていた。
 そこで、今年ルンブール中学をカラーシャの中で一番の成績で卒業し、ボンボレット谷の高校で勉強しているマシャールが断食明けの休暇で村に戻ってきたのをつかまえて、彼にリストアップしてもらうことにした。カラーシャで成績が一番というのが、どのくらいのものか、マシャールの仕事ぶりも見てみたいというのもあった。
 英語が苦手でウルドゥー語ならまあまあという生徒が多い中、マシャールは村人の名前を英語ではすぐ書けるが、ウルドゥー語では一瞬考えていて、得意でないよう。彼の字は細かく几帳面で、老眼がきている私はいちいちメガネをはずして読まなきゃならん。数の計算もたまに数えまちがいがあったが、わりあい合っていた。(簡単な足し算だからできるのが当たり前だろうが、でもジャムシェールだったらきっともっとまちがうだろう。)等、マシャールの書く能力の一部がわかっった。
 それで、出て来た数字が、バラングル村56世帯で、男性202人、女性178人、合計380人。以前より70名、2割強の人口増加である。このままいったら、すぐ500人になってしまうだろう。そうなると限られた耕作地で穫れる作物では絶対的に賄っていけないだろうから、将来に対して今から考える必要があるのではなかろうか。「ファミリー・プランニングと地盤産業」の組み合わせで、まじめに取り組んでいかないと、大変なことになるかもしれない。
 このテーマで、大人の学習会をやりたいと思いつつ、これまた、こっちがその気になってる時は、村の人たちの時間がなかったりなんやらで、なかなか開くことができない。でもこうやって数字をみてみると、危機感がつのってくる。しかし、男性が24人も多いというのも、驚きの数字だ。だから嫁さんがいない独身おじさんがあちこちいるのだろう。

大工さんの仕事、一応終わる
 大工さんの2階の増築作業も2年がかりでようやく終わった。まだ椅子や棚を作ってもらいたかったが、次の建築仕事の依頼人が大工さんのもとに再三やってきて、自分の家を早く作ってくれるよう言うので、こちらも引き止めるわけにもいかず、トイレの建物ができた時点でくぎりをつけた。
 おとといは、2階では大工さんが仕事をしていて、下の作業室ではルビザールがコースター縫い、その隣ではマシャールがバラングル村のすべての人の名前をリストアップ、外の庭ではナスィールがクルミの木に登って、実を落とし、地面でジャムシェールと近所の女性、子供たちが実の収穫をしていて、午後はアリママットが手漉きの紙に絵を描く作業に来た。各自に仕事を指示して、その間に大工さんへ10時のミルクティーとプルカ(厚めのチャパティ)作り、お昼の食事作り、3時の紅茶を出さねばならんし、さらにその合間を縫って、ハンディクラフトの新商品の試作品などを作っているんで、なかなか外に出る暇がない。従ってせっかく弟からもらったデジカメで村のスナップを撮ることもできず、撮るのはハンディクラフトの見本写真が多くなる。

 写真:手織りの幅広紐を縦に3枚縫い付けたA4サイズのバッグ

ツーリストがぼちぼち村に

2009年8月30日
 アメリカの強い後押しによるパキスタン軍のスワットとディール地方でのタリバン掃討作戦がようやく功を奏したのか、ディールを通ってラワリ峠からチトラールに入る陸路も一般の車が通れるようになり、シーズン中もずっと閑古鳥が鳴きっぱなしだった、うちの村のサイフラー・ゲストハウスにもちらほらバックパッカーが訪れるようになった。
 今、ゲストハウスには3人の外国人旅行者が滞在している。日本人女性のHさんは大学生で、おととし夏休みにフンザとルンブール谷に来て、ここを気に入り、去年も今年の夏休みもインド旅行の後、パキスタンではルンブール谷だけをめざして来ているという。もう一人の日本人男性はコンピューター・プログラマーの仕事を止めて、フリーランスになる間の3ヶ月の休暇でアフガニスタン(主に北部)を旅行していたが、お金が底をついてきたので、カラーシャの谷にやってきたそうな。そしてもう一人の外国人、ヒッピー風の彼はパレスチナ人。13歳までパレスチナで育ち、両親とクェートに移り、その後十代後半からアメリカで暮らしていたらしいが、今はタイの北部の小さな町に住んでいるという。
 片言の日本語を話すので、日本にいたのかときくと、何と、別れた奥さんが日本人だったという。パレスチナ人の旅行者には初めて会ったが、彼はパレスチナ人というより自然と平和を愛する自由人という感じだ。国を離れてから長いからだろうが、こういうパレスチナ人もいるんだなと少し驚く。
 パレスチナのことで思い出した。今年の3月1日付けの佐賀新聞の「有明抄」欄に掲載された記事を転載させてもらいましょう。


                   ***
 先日久しぶりに里帰りした佐賀市出身の写真家わだアキコさんに、パキスタンやアフガニスタンの情勢を聞いた。わださんはパキスタンのルンブール谷で、子どもたちの教育促進や衛生的な生活環境改善、伝統文化や自然環境の保護に取り組んでいる◆「オバマ大統領がアフガンへの米兵増派を決めたんですが、現地のことが分かってられないのでは。戦闘で亡くなっているのは、ほとんどが一般の貧しい住民なんです。戦闘よりも援助が必要です。」タリバンとテロリストはイコールではないという◆話をききながら、作家の村上春樹さんがイスラエルの文学賞授賞式で行ったスピーチを思い出した。村上さんは、多くの人からイスラエルの授賞式に著書の不買運動を行う、と警告されたそうだ。」しかし、村上さんは行って自分の目で見て、授賞式で自分の思いを話すことを選んだ◆このスピーチが秀逸だった。オバマ大統領の演説より、はるかに深く感動的だった。「ここに高くそびえる壁と、壁にぶつかると壊れる卵がある」と切り出した。「私はいつでも卵の側に立つ。たとえ壁が正しくて卵がまちがっていても」と文学者としての自分の立ち位置を示した◆壁がイスラエルで卵がパレスチナ人の意味ではない。壁とは戦車やロケット弾など人間がつくったシステムで、本来はもろい殻に覆われた魂である卵を守るためにつくられたが、それが冷酷にシステマティックに殺しを行っているというのだ◆「壁と卵」は北朝鮮の拉致集団と拉致された日本人にも、アフガン戦闘と住民たちにも当てはまる。米兵増派の壁のために、用水路整備活動のペシャワール会員も帰国を余儀なくされている。私たちも壁側か卵側か常に自分に問いかけたい。(園田寛)
***
 小さいスペースの中に、うまく、するどくまとめてありました。さすが園田さん(高校の同級生)!

●新製品紹介
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「山羊のテーブルセンター」
クラフト支援隊(日本)の意見を取り入れて縫ってみました。

略奪結婚の取材

09年7月19日

略奪結婚の取材
 7月10日から3日間、共同通信社の記者さんとカメラマンがいらして、「カラーシャの略奪結婚」についての取材をされ、私はコーディネートと通訳で付き添った。
 人妻を略奪して現在幸せな結婚生活を送っているカップルを紹介してほしいということで、ボンボレット谷から駆け落ちしてきた美人の奥さんと、結婚後に軍人になったが、ちょうど夏休みで帰省しているきりりとハンサムな夫に目星をつけていたが、奥さんはバシャリ(生理出産のこもり小屋)、夫はビリール谷の葬式に行くようで、第一日目の本人たちへのインタビューは不可能となった。
 記者さんはカップル本人たちだけでなく、略奪された元の夫の話もぜひききたいということで、そいじゃ、ボンボレットに行かなくちゃと、ヤシールに相談してみると、「彼はひょっとしてソーネ(高地の山羊の放牧地)にいるかもしれない」という。「でも、ソーネに行ってないなら、今日のビリール谷の葬式に参列するかも」という記者さんの期待と、カラーシャの葬式を見てみたい(撮影したい)というカメラマンの希望で、「よし、ビリール谷の葬式に行こう!」ということになり、私も同行した。
 ビリール谷はいったん麓の町アユーンに出てから川沿いに南下して、谷あいに入っていくので、ルンブールから行くには2時間ぐらいかかるし不便なので、めったに行かない。この前行ったのは、3、4年前のプー祭(ぶどう祭り)だったっけ。
 夕方にならないと、ルンブールやボンボレットからの弔問客が集まらないので、その時間に合わせて行くことになる。予定より少し遅れてビリールに着いて、薄暗くなりかける頃まで斎場にいたが、なかなか人が集まらない。
 ボンボレットの弔問客の中に、駆け落ちした奥さんの元夫はいなかったが、その父親が来ていた。記者さんは「じゃあ、お父さんに話をききたい」と言うが、斎場に着いたばかりで、すぐにそういう、あまり歓迎されない質問をして嫌がられるのではと、私はためらっていたが、何の何の、お父さん自身が略奪結婚した口で、その当時のことをしゃべるわしゃべるわ。息子についても、初めの嫁さんを取られたとはいえ、すぐに代わりの嫁さんをもらい、今は2人の子どももいて幸せだとあっけらかんとしている。
 あまり夜遅くなると慣れない道路で危ないし、明日のこともあるので、8時半前に引き返し、ルンブールのバラングル村に着いたのは11時近く。やはりビリールは遠い。
 2日目は村で目星のカップル、その他にも略奪した男性、された方の男性、夫を捨てて新しい男性の元に走った女性などの取材に同行して、私も知らなかった話などもきくことができて、なかなかおもしろかった。この略奪結婚に関しての記事は8月以降の新聞に掲載されるそうなので、どういう風に書かれるのか楽しみだ。

 共同通信社さんたちが村を去られた翌日の夜に、今度はうちの村のお年寄りが心臓マヒで突然亡くなった。うちのハンディクラフト伝統織り部門のリーダー格であるアスマールの母さんの実の父親だ。こちらは先日のビリール谷の葬式と違い、たくさんの弔問客が集まり、嘆き、歌、踊り、チーズ、山羊の肉、肉汁、ギー、小麦パンの盛大なカラーシャの葬式が繰り広げられた。

 というわけで、ライブラリーも飛び飛びに開くことになり、ハンディクラフトの作業も喪中でお休み。大工さんも来なくて、緊張感喪失。気候もずっと涼しかったのが、やっと夏の暑さになり、外に出ると頭がぐらぐらするので、一人で室内にこもって、ちまちまナンやらかんやら、リサイクル縫い物したり、クラフトの試作をしたり、読書したりの、先月とは違う生活サイクルを送っている。
 

村に戻って



2009年4月5日
 チトラールで1泊して静江さんを待つが、雲が多くてフライトは欠航。天気予報ではこの先5日間は天気が悪いということなので、イスラマバード空港(ベナジール・ブトー空港)の近くのホテルに泊まっている静江さんに電話して「申し訳ないけどチトラールのホテルで5日間待っていてもしょうがないので、先にルンブールに行く」と断って、バラングルの我が住処へ4ヶ月ぶりに戻ることにする。
 谷までの同乗のカラーシャ娘3人は、アガ・カーン・ファウンデーション(NGO)に呼ばれて、「Women's Right(女性の権利)の会合」に出席してきたという。3人のうちの1人は高卒の人妻、後の2人は高校生。神の前では不浄の身とされているカラーシャの女性が、女性の権利を話し合う会合に出席する時代になったんだ、と複雑な思いで彼女たちの会話をきいていると、「今日の会合には一人としてきれいな女性がいなかったよね」「男性が一人いたけど、彼は誰だっけ?」「彼は担当官の夫だよ」といったぐあいで、女性の権利とはほど遠い内容。カラーシャに民主的な女性の権利が話し合われ施行されるのは、まだまだ時間がかかりそうだ。

2009年4月21日
ライブラリー
 今年の冬、1月から2月までの学校の冬休みの間、ジャムシェールとヤシールがライブラリーを開いてくれていた。ルンブールに着いた翌日にさっそく開いたライブラリーで、「冬の間読んだ本の中でおもしろかった本は何?」と子供たちに質問してみる。恥ずかしいのか何なのか、本の名を全く言えない子供がけっこうな数いたが、3~4冊の本の題名をすらすら言う子供も3割。学校の教科書を持ってきて、おさらいをしていた子供もいたらしいから、ま、留守の間、ライブラリーを開けてもらって正解だったということだろう。
 カラーシャは自分たちの言語を持っているが、文字はない。キリスト教関係の言語専門家が、カラーシャ語の辞書を作るときにカラーシャ語アルファベット化したのに基づいて、カラーシャの有志2人が、カラーシャ語の日常生活の簡単な文と祭りの歌を集めた2冊のハンドブックを出版したのを昨年からライブラリーに置いていた。その本が今年になって、上級生の人気になっている。ヤシールもその本の読み聴かせをしているが、やはり、自分たちの言葉というのは親しみがあるだけ興味も強いようだ。 

 留守中のライブラリーではDVD上映はやらず、私が戻ってから始めた。そしたら、DVD目当てだろう、ライブラリーは満員状態になったりしたが、雨が降り続いて発電所の水路に泥水が溜まり、昼間は発電を止めるようになり、DVD上映ができなくなったとたんにライブラリーに来る子供が減ってしまった。DVD鑑賞が主で読書がついで、ということになると本来の目的が違ってくるので、やり方を考えなければならない。

ハンディクラフト活動 
 昨年のハンディクラフト隊の健在で、娘組ではリーダー的存在のグリスタンに、これまで私がやっていた山羊のコースターの裁断を彼女にやってもらうことにする。グリスタンは中学まで出ているから、鉛筆の持ち方、物差しの目盛の読み方がわかるので、やり方を説明したら、意外とすんなりやり始めた。昨年だったら、「私は無理だよ。できないよ」といってたのに。初めてなので多少サイズのムラがあり、時間もかかりはするが、なかなかいいスタートだと思う。
 静江さんが昨年我々が作ったクラフトをサンプルとしてたくさん買い求め、日本でお友達に見せてまわって、注文をとってくれたので、まず、その注文の品を静江さんが帰国する5月の終わりまでに作らねばならない。5月半ばのジョシの春祭りのために、女性たちは自分たちの民族衣装を新調するのに忙しい中でやってもらわなければならないので、ひとつ気合いを入れて頑張ってもらおうではないかというときに、葬式があり、村の女性の大半は喪に服すことになり、出足をくじかれることになったが、人の死も自然の摂理だから仕方がない。
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 写真:コースターの裁断をするグリスタン

葬式
 村に戻って3日後に、ダジャリの父さんが亡くなった。ここ数年、年齢のこともあって(明確に何歳かは不明だが、80歳くらいか?)弱っていたので、老衰のようなものだろう。ジャマットの伯父さんで、カラーシャでは叔父も父親と同じような関係なので、私も何年間か叔父家族と同じ家に住み、食事を共にしたこともある。私が作業室に離れて住むようになってからも、ダジャリの父さんはうちの庭先や門の辺りで昼寝やひなたぼっこをしていたので、いつも目に見えるところに存在する近しい人だった。
 今回も私が日本から戻ってきて挨拶に行くと、「おお、元気で帰ってきたんか。よかった、よかった。」と寝たままであったが、私を認識してくれた。その夜に意識不明になり、翌日息を引き取り逝ってしまった。静江さんがイスラマバード空港で席を譲ってくれたおかげで、叔父ちゃんに最後の挨拶ができて、ほんとうによかったと思う。
 その静江さんは、ずっと天候不順で私より遅れて6日後の4月10日にチトラールに到着、その夕方に村に入った。6日間、イスラマバードのホテルに釘付けだったろうから、さぞ、たいくつしていただろうと申し訳なく思っていたが、パキスタン人のご主人を持つ日本人女性のお宅に5日間お世話になっていたそうで、カラーシャとはまた違うパキスタンの生活を垣間みることができて、楽しく過ごしていたときいて、こちらも安心した。


 
***
2009年4月4日
 昨夜、イスラマバード空港で静江さんと再会して、空港近くの宿で仮眠。今朝、空席待ちの切符で空港に行ったが、昨日のフライトが欠航だったので、国際線乗り継ぎの静江さんの席は取れたが、私の席はとれなかった。でも、チトラールで用事を済ませられるよう、静江さんが席を譲ってくれて、私は一足先にチトラールへ。
 チトラールは寒い~涼しいの間ぐらいで、身が引き締まる。チトラールにもイスラム法が施行されると新聞に書いてあったときいたが、こちらの人たちはそんなことはないというので、少しほっとする。バザールの物資もアフガニスタン経由で運ばれてきていて、思ったよりも品数がある。
 スタッフのジャムシェールが迎えにくるが、静江さんを待つためにマウンテン・インに泊まるので、村に帰す。マウンテン・インのベランダで、手入れされている広い庭や後の雪の残った山々を見ながらお茶を飲んでると、昨夜のホテルの千倍も優雅な気持ちになる。しかし、食事となると、いつもランチをとるゴラム食堂が「チトラリ風ごはん定食」を作ってなかったので、とたんに状況が困難になる。「脂っぽい肉入りごはん定食」を食べに女1人でアフガン食堂に行くのもかったるいしで、ランチはビスケットと水。昨夜からきちんと顔を洗ってない上、空気がものすごく乾燥してるので、いやいや鏡に映る自分の顔を見たら、うるおいがすっかり消えて、ショボショボおばさんになっていた。あーあ、チトラールにもどってきたんだなと実感。

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