カラーシャの谷・晶子便り

パキスタン北西辺境州の谷に住むカラーシャ族と暮らすわだ晶子の現地報告。

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新しい人々に会う

4月25日(月)
 3年前の帰国中に、「カラーシャ谷でいろいろ記録するのに、デジタル・ビデオがあったらよかろう?」と弟から言われ、「そりゃあ、よかろうね。」と言ったら、当時けっこうな値段だったモニター画面が一番大きかったソニーのハンディカムを買ってくれた。弟はそういう形で私の活動に協力してくれたのだろう。私はビデオを使ったことがなかったので、ビデオのことはあまり実感がわかなかったが、そのハンディカムで静止画、つまりデジタル写真が撮れることが嬉しかった。
それまで普通のカメラでフィルムを使って撮影していたが、現像はペシャワールに行く時までできず、スライドの場合はペシャワールからさらにカラチに送るので1週間かかる。撮ったはしから画像を確認できるデジタル写真は、私の環境からするとものずごくよろしい。本格的な写真は無理だけど。
 写真は撮影しただけでは、つまらない。今でも私は自分で現像するモノクロ写真が好きだが(もう20年ご無沙汰している。)、像がじわじわ印画紙に浮かび上がってくる時に味わう興奮と、うまく撮れていた時の満足感、あれが何とも言えずよろしいのだ。カラーシャ谷でスライド写真を撮っても、下手すると半年後ぐらいに、自分で何を撮ったのかわからなくなった状態で現像に出すとそういう味わいはなくなる。逆に撮ったのを忘れていて、意外といい写真があるった時はうれしいけどね。
 そういうわけでデジタル・ビデオを喜んだのだが、そうすると、撮ったデジタル写真をパソコンで保存しなければ意味がないと弟が言い、ついでだからと、使ってない小型ノートパソコン(私はへそ曲がりのチビ・バイオと呼んでる)をくれた。
 水道も家に来てない、不安定な電気が夜だけ来るという生活をしている私は、デジタル・ビデオ・カメラとパソコンの二つの文明の利器をを同時に持つはめになり、使い方もわからないまま、こちらの住処に戻ってきてしまった。あれ以来、それまでの谷での私の平和な生活はことごとく壊されてしまった。とまではいかないが、どれだけ翻弄されたことか。特にチビ・バイオの方は、毎回毎回問題が起きる。基本を知っていればたいしたことはないのだろうが、周りに訊く人のいない状況の中で、私は半パニックになる。私なりにいろいろ試みてはみているものの、いつも時間の無駄だったことが多い。早い話、チビ・バイオは今でもワープロ機能以下しか使いこなせない。チビ・バイオが古いウィンドウズ98だというのも問題の一つらしいが、何かかんか言ってもどうにか動いているので捨てるのは嫌だし、買いかえるお金もない。
 今回も、パキスタンに戻る間際に(またまた弟から)選別に買ってもらったUSBドライブが、パキスタンでいざ使おうとしたら読み込まないのだ。(後でウィンドウズ98だからとわかったが。)その他にEメールを送信するのに便利なアウトルックもおかしくなっているので、去年の冬ファウジアの家で会った、海外青年協力隊で女性開発省下の学校でコンピューターを教えている藤井ふみさんに、藁わもすがる気持で電話したら、月曜日に仕事が引けてからということで、雨の中を
駆け付けていただいた。
 パキスタンでは、まずもってインターネットに接続するのにも時間がかかるし、いちいちがスローなので、忍耐の人にならねばならない。藤井さんはインターネットからUSBドライバーのウェブからダウンロードを試みたのだが、私の持っている機種の名前がなくて、それに似たのをいろいろとダウンロードしてもだめだった。アウトルックは設定し直してもらって、インターネットカードを使ってもできるようになった。
 その後藤井さんと話をする。実家が広島にあるという藤井さんは、コンピューター教師の仕事が終わってから、別なボランティア活動、広島と長崎に原爆が落されて今年で60年ということで、「原爆の恐ろしさをパキスタンの人たちに知らせる」活動を隊員仲間3人で始めている。今や核を持つ国となったパキスタンの人々の大半は、核兵器は強いものの象徴であると自慢こそすれ、核がいかに恐ろしいものかをわかっていない。原爆を体験した日本はもっと声を大にして、世界が核を持たないように説得するのが使命なはずなのに、日本人自体も忘れかけようとしている。核を持ちながらの平和などあり得ないと私も思う。
 藤井さんたちの活動は大きいものではない。来月から付近の学校を訪問して、広島市から借りたアニメのビデオの上映とポスター展示するというだけのものだ。そして8月6日には「原爆の日」というイベントをやり、普通のパキスタンの人に来てもらいたいという。藤井さんの話をきいて、私はすぐにICLCを思い出した。代表者の田島伸二さんも広島出身で、核のない平和を願う方だ。そのメッセージを込めた「亀のガウディ」の物語は田島さんの最高傑作の一つだ。ICLCP(ICLCパキスタン)にも協力をお願いしようと思う。

4月26日(火)
 日パ旅行社に顔を出してから、メロディ・マーケットでうちらのNGOのパンフレットの両面コピーを30部とって、アッパラに小包用の布とシャワールのゴムの買い物。そしてミュージック・テープ屋で、国立の「駆けこみ亭」というお酒の量も多く、料理もおいしくて、なごめる飲み屋さんで感動して買った、戦争は嫌だのメッセージがこもったCD「世界のお母さん」(by 国分寺エクスペリアンス)をカセットテープにコピーしてもらう。私の住処にはCDデッキがないのでCDの方は不用だから、藤井さんにあげて「原爆の日」のバックグラウンド・ミュージックの一つとして使ってもらおう。

4月27日(水)
ほんとうはファウジアから個展の作品をスライドで撮影するよう頼まれているので、早いところやってしまいたかったが、1日中雨だったのでやれず。外にも出ずに、あっという間に時間が経つ。しかし寒いよ。この時期のイスラマバードにしては信じられない。チトラールはもっと寒いだろうな。

4月28日(木)
 パキスタン人のご主人を持ち、環境保護運動家で、イスラマバード開発局の顧問でもあるドイツ人のヘルガさんから、「パンジャビ語がぺらぺらというだけでなく、とても人柄が良いJICAの方が、あなたの活動に興味をもってらしゃるので、ぜひ会ってみなさい。」と半ば強制的(?)に言われたので、今朝ご本人である平島さんに電話をしてから、JICAのオフィスに面会に行った。
 後で名刺をじっくり見て知ったのだが、平島さんは明治学院大学の教授で、今はJICAのイスラマバード・オフィスでプロジェクト・フォーミュレーション・アドバイザーとして働いておられる。平島さんは私としばらく話をされた後に、アフガニスタンのJICAの専門家のお二人の方が、健康チェックで一時帰国をされる途中に寄られているので、お二人と私と別々に2ヶ所で話をするのは無理なので、一緒にどうぞということになった。
 アフガンJICAのお二人は農業指導をされている柴田さんと、教育分野の援助に関わっておられる渡辺さん。柴田さんが平島さんと報告について話を始められたので、私は渡辺さんにカラーシャの谷での活動のファイルを見せながら話をしていた。
 すると渡辺さんが、「おや、この田島という人はひょっとしてユネスコにいた人ですか?」と、私のファイルの中で田島さんの名前を見つけておっしゃった。聞いて見ると、「自分が田島を引き抜いて、パキスタンに赴任させた。その後音沙汰がないので、心配していた」方だとわかり、私は喜んで田島さんのパキスタン時代から最近までの活躍を伝えた。
 本間さんのお友達のバングラデッシュのカビールさんのことと言え(先週遭遇した話)、田島さんのことと言え、世の中は広いようで狭くて驚いてしまう。

 その後、両替屋で美穂子基金のお金も含めてルピーに両替して、私の写真集を預けてあるUNDPへ。当人のファヤース氏は出張でおらず、1冊売れた代金と残りの9冊を返してもらう話だったが、1冊が国連スタッフ・ニューズレターに載せた時に見本として貸したままになっているという。すぐに国連の連絡通信担当官の女性が来て、預かったのはすでにファヤーズに返したという。どうも行方不明になったようだ。10冊全部売ってもらったのなら、1冊はあきらめても仕方がないかもしれまいが、1冊売ってもらって、2冊を贈呈するわけにはいかない。
 連絡通信担当官の女性が、「それにしても残った写真集はどうするの?」と訊く。「仕方がないからチトラールに送ります。」と言うと、「アメリカン・クラブや国連センターに置いてもらえば、あなた、絶対売れるわよ。」と言い、すぐにアメリカン・クラブの担当者に電話をしてくれた。しかし相手につながらず、彼女自身も今立て込んでる最中だというので、明日出直すことにする。

 帰宅するとすぐに、協力隊の藤井ふみさんがまたしてもチビ・バイオのUBSドライブのインストールのために来てくれた。そしたら、インストールをやる前にまずインターネットがつながらず、あきらめる。その後藤井さんも一緒に、ICLCPのショーカットさんとクラムさんに会った。新しくメンバーになったタヒール・マクスードさんというキャノンのコピー機の仕事をしている方にも紹介され、今はブルーエリアにある彼の事務所がICLCPの仮事務所になっていた。しかし実際のコンピューター教室などの活動は今はお休みということだ。
 ショーカットさんはイスラマバードの端、ラワルピンディと向かい合うあたりに、識字教育の一環として開く、子供コンピューター教室の場所を探しているという。場所が決まったら、藤井さんもボランティアで教えたいと言う。
 また、藤井さんの「原爆の恐ろしさを伝える」活動にも、ショーカットさんたちは協力を約束した。ファウジアも藤井さんたちが学校を巡回する時に一緒に行くと言っている。藤井さんは協力してくれる人たちが増えて心強いと喜んでいる。

4月29日(金)
 このブログ便りを早朝から10時まで打って、その後、昨日約束した国連の連絡通信担当官のオフィスへ行く。彼女の名はアメラ。パキスタン人両親からクエートで生まれ、小さい頃に家族とカナダに移住して、カナダ人として育ったという。顔はパキスタン人と言えるが、茶髪にシャツとパンツという恰好だし、話し方や雰囲気は北米人だ。昨日会ったばかりのアメラは、私の写真集をアメリカン・クラブとUNセンターに置いてもらうために、なかなかつかまらないアメリカン・クラブの担当者に何度も何度も電話し、そして写真集のことを紹介するレター、私のバックグラウンドと写真集はチャリティに使われるということも明記して、を作成してくれた。このレターを国連スタッフに廻してくれるそうだ。写真集が欲しい場合はアメリカン・クラブかUNセンターで買うように言ってある。3時間もかかってここまでやってくれた彼女に感謝。
 ペシャワールで勉強しているカラーシャ家族のムサシ・ディンに電話するが、そうでなくとも超特急に早口のムサシの声が電話口で割れて、何て言っているのかほとんどわからなかった。別な公衆電話でチトラールのマウンテンインに電話する。マネージャーは数日前にルンブールの人たちがチトラールに来ていて、私のことを訊いていたという。大使館からも私宛てに電話があったという。プロジェクトのことだろうと、さっそく大使館の担当官に電話を入れたら、田中大使が7月に私たちのところを訪問なさりたいということ。


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イスラマバード着



4月21日(木)
昨日のラホール午後1時半発のハイウェイバスで夕方5時半頃にイスラマバードに到着。ラホールは38度の暑さだったが、イスラマバードは若干涼しい。といっても新聞によると、最高温度が35度だから暑いことは暑い。
今日はアラーの使者ムハマッドの誕生日で祝日。世話になっているファウジアの家では、子供たちとファウジアでが家の外にたくさんのろうそくを灯した。

4月22日(金)
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写真:子供に土器作りをデモンストレーションする職人
ファウジアとLok Mela(民芸品祭り)に行く。布、織物、刺繍、木製品、陶器、スレート彫り物、人形などのブースがパキスタン各州ごとに立ち並ぶこの催しは毎年春秋に開かれる。秋の催しにはカラーシャの人たちも参加していた。しかし、それは自分の意思というよりも、チトラール県知事の命令でわけわからず連れてこられて、木彫りを作ったり、紐を織ったり、はたまた踊りを踊らされたりしていた。昨年、カラーシャの女性たちが勝手に連れて来られるのに、ペシャワールで勉強しているカラーシャの若者たちが抗議したので、今年からは県知事たりとも、勝手な命令はできないようになった。
ファウジアの生まれ故郷の村のスレート彫り職人は、ファウジアが見出して世に送りこんだ。彼女自身もその職人から技術を学び、たくさんのオリジナル作品を作っている。今やその職人の長男も独立したブースを持つほどになり、なんと8歳の次男まで、父親から一生懸命技術を学ぼうとしている。ファウジアは「この子は学校にもちゃんと行き、帰宅してから父親のそばで技術を学んでいるのよ。こういう形で伝統が受け継がれていくことはとても好ましいでしょう。」と嬉しそうに話す。

4月23日(土)
ファウジアの個展が、フレンチ文化センターで今月14日から25日まで開催されているというので、ファウジアについていく。始めのうちは人が多かったらしいが、私たちが行った日はあいにく誰もいなかった。今回彼女は手すきの紙に描いた絵、スレートに彫り込んだレリーフ、そして油絵と三種からなる38点を展示している。手すき紙に描いた絵は価格が安いこともあってほとんど売却されていたが、インスピレーションが湧いて1週間で6枚をいっきに描いた油絵は、メッセージ色が濃いせいもあって1枚も売れていない。蛇(力で社会を
牛耳ようとするものを表わす)に翻弄されて、嫌がおうなく戸口の外に出て逃げ惑う母親と子供たちを表現したシリーズはなかなか迫力があるというだけでなく、今の世界をよく表わしている。罪のない女性や子どもたちのとまどい、悲しみが伝わってくる作品だ。こういう作品こそもっと評価されてほしいと思う。
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 写真:ファウジアの作品;木版レリーフの上に油絵
 
4月24日(日)
昨夜雨が降ったので埃も少なく、昼間も曇りで快適だった。十数年来の友人の家を訪ねる。彼女は私がボンボレットに住み始めた頃に、彼女の妹と二人でチトラールのAKRSPのコーディネーターをしていて、その頃はずいぶん世話になった。AKRSPでキャリアをつけて、その後イスラマバードで結婚して、別のNGOを転々としながら、さらにキャリアをみがき、今ではUNDP(国連開発計画)と政府が行っているプロジェクトのマネージャーとして活躍しているという。彼女のご主人は前からUNDPで働いているが、私が2年前に写真集を出版した時に、彼らを出版発表会に招待したので1冊贈呈したのだが、その時、彼女は私に「UNDPで100冊ぐらい売ってもらいなさいよ。あそこは外国人が多いから。」と言ったが、100冊なんていうのは無理だろうと、10冊売ってもらうよう渡していた。その後、お互い忙しくて会わずじまいだったのだが、結局2年間で1冊だけ売れたときいて、がっくり。
しかし、一つよい話があった。彼女が今組んで働いている政府の大臣が、毎年、国に貢献している人物に賞を与えるそうだが、今年私を受賞者に推薦したいと言うのだ。うーん、こういう話がそのまま実現するとはあまり思わないが、彼女が今でも私のことを考えてくれていることには有難く感謝したい。
 

4ヶ月ぶりのパキスタン

4月17日
 恐怖の水かけ祭は15日で終わって、カウサンの通りは普通の騒々しさ(?)に戻り、ほっとする。16日はラホールやイスラマバードの友人ファミリーへのおみやげ買いに費やす。といってもかさばる物、重い物は、足が痛くてすっかり力がなくなった私には持ち運べないので、そんなには買えない。カラーシャたちにはタイの置物やお香などは無用の物なので、チトラールで大量にビスケットを買うことにしよう。17日は昼の12時に宿の部屋をチェックアウト。空港には4時半頃に出ればいいので、汗がほとばしり出る蒸し暑い外気を避けて、エアコンの効いたインターネット屋で3時間近く過ごす。新年の休暇の最終日で道が混んでいて、エアポート・バスが30分遅れて到着。しかし逆方向だったので、空港には50分で着いた。
 今回会いに行くはずだった、20年以上も前からの友達で、現在バンコクで仕事をしているスイス人の友達家族とは、彼らが休暇でバンコクを離れていて、すれ違いになってしまった。せめて空港から電話しようと、チェックイン、イミグレーションを済ませ、搭乗ゲイトの待合室のずらりと並んだ公衆電話にコインを入れるがかからない。きくと、そこの電話は壊れているらしく、上の階に行けという。せっかく手荷物の検査を通ってきたのに、またやり直さねばならない。上の階の電話もなかなか見つからずいらいらしたが、ようやく無料電話を見つけ、ゆっくり友達と話すことができた。
 電話のことでもう一つ歯がゆいのは、今回向かうラホールの紙漉き仲間の友人に、そこここに看板がかかっている1分15バーツの国際電話で電話しようとしたら、パキスタンはシステムがないから通じないと言われた。パキスタンを通り越してヨーロッパにはできるのにと、がっくりしてたら、そばにいた親切な日本人旅行者が、セブンイレブンで100バーツのテレフォンカードを買って国際電話用の公衆電話を使うと簡単にできると教えてくれた。そこでセブンイレブンに行くと、100バーツのカードはなく、300バーツか500バーツしかないという。3軒廻ったが、みんなそうだった。ラホールの友人にはすでにEメールも出してあるから、ただ確認の電話をするだけで、300バーツのカードは買いたくないとあきらめた。パキスタンからタイに来ると、パキスタンに比べるとずい分便利だと思うのだが、逆に日本からタイに行くと、まだ遅れているなと感じる。ま、遅れていても別にいいけど、壊れている電話は直してもらいたい。

 バンコク午後8時発で、ラホールにはパキスタン時間午後11時ごろに着く。到着のパスポート・コントロールのところはごったがえ。みんな一列に並んでなくて、パスポートの係員のカウンターを取り囲むように群がっている。成田やバンコクではありえない光景だ。婦人と子供優先の列にも男が並んでいる。そばの外国人女性と私が、並んでいる男たちに文句を言ったが平気な顔。パキスタン人は個人的に知り合えば親切で人がいいのだが、公共マナーは最悪だ。
 両替所も、取りあえず60ドル換えようとしたら、係員が「たった60ドル?100ドルじゃないの?」とよけいなお世話を焼く。挙句に80ルピー足りない。「80ルピー足りない」といったら、100ルピー出して、20ルピーおつりをくれという。「ルピーがないから今両替してるんでしょうが。まったく。」そしたら、「しょうがない。じゃあ20ルピーは要らない」というところが、いい加減でパキスタンらしい。有人公衆電話で友人宅に電話したら、Eメールは届いてなくて、突然の電話に驚いていた。しかしパキスタンの人は嫌な顔せずに、「おいでなさい」と言ってくれる。公衆電話の兄さんに5ルピー払おうと百ルピー出したら、おつりがなくて、これまたタダにしてくれた。やっぱりパキスタンはいいなと、20ルピーや5ルピーで喜ぶ私。夜中の12時半にぼろタクシーで友人の家に着き、シャワーを浴びてバタンキューで寝てしまった。

よくやるよね

4月15日
やっと開いているエージェントを見つけ、二日後にタイ航空でラホールに飛ぶことにした。ラオス行きも国境でビザが取れるときいて、少し迷ったが、とにかくこの水祭りの騒ぎの中では、通りに出るだけで大変だし、国境にたどり着くまでに、水びたしになってるかも知れないし、ひょっとしてラオスでもこの祭りをやってる可能性もあるので、ラオス行きはまたのチャンスに、心の余裕をもって行くことにした。
しかしこの祭り、私が来て3日目。こちらもいくぶん慣れて、気違い騒ぎの群集の中にも入っていけるようになった。もちろん入り込まねば道を横断できないからなのだが。しかし道路の10メートル四方に、単純計算で5百人もの、全身白い粉のずぶ濡れの若者が、大声を張り上げて水や粉を掛け合う光景を想像していただきたい。。
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        写真上:カオサンのレストランの奥から通りを撮る。
この祭りは先週の金曜日からやっているそうで、毎日毎日この同じ騒ぎを繰り広げているということだが、よくもまあ飽きないのかと思ってしまう。 ま、何にしても水を掛け合って新年の祝いをし、ついでにストレスを発散するのは、暴力をもってストレス発散するよりは、百万倍もよろしいと思うけどね

バンコクに着いたけど

4月13日午後4時頃バンコク到着。ほんとうは4月12日に来るはずだったが、12日は水かけ祭りで、通りを歩くと水をかけられると聞いて、1日ずらして13日にしたのだ。荷物を引いて宿探しをしてる時に、不特定多数の人にサバサバ水をかけられてはかなわないもんね。
空港からカオサン行きのバスに乗り、街中に近づくにつれ、通りの人が水をかけ合っている光景が見える。やばい。祭りはまだ終わってなかったのだ。それだったら、もう少し東京にいればよかったと後悔するが後の祭り。
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          写真上:空港からのバスの中から見た光景
カウサン近くのデモクラシーの塔の広場には花やイルミネーションの山車が据え付けられ、地味な東京の街からきた目にはまるで夢の中にいるようだ。とにかく若い人たちばっかりものすごい人出だ。こんなにたくさん、いったいどこから湧き上がってきたんだろうと思ってしまう。通りにも、通りを走る車(バンや軽トラック)の後にも、水がたっぷり入ったコンテナーが置いてある。人々はそれぞれプラスチックの水鉄砲マシンガンを手にし、誰かまわず水を打ち付けている。いや、水だけでなくタナカという白い粉を練ったのも、誰かまわず顔や体に塗りつけ合っている。
バスはいつもの停車場に入れず、広場で止まり、我々乗客は降ろされた。「いやだよ、いやだよ。こんな水かけ祭の真っ只中はやばいよぉ。飛んで火に入る春の虫になりたくないよぉ。」
極力くそまじめで恐い顔つきをして、「イクスキューズ・ミー」と言いながら、まじめな外国人ツーリストになり切り、広場ではあまり被害に合わずにすんだが、宿屋が並ぶ路地に入ると、いきなり顔に鉄砲水をやられてしまった。西洋人ツーリストが仕掛け人だった。「プリーズ・ストップ・イット」と抗議したが、「そんなの無理だ。どうせどこに行ったってこうなんだから。」と笑う。確かにそうだ。しょうがないから、宿探しをせずに、その辺にある宿に逃げ込む。
宿の兄さんにきくと、この祭りは新年の祝いの祭りで、何とあと5日間続き、その間公共機関やオフィスは休みだというのだ。何ということだ!場合によってはラオスに行くことも考えていたが、オフィスが休みだとまずビザが取れず、無理ということになる。がっくり。

4月14日
昨夜、通りでは明け方まで大騒ぎで(外国人ツーリストなのかタイの人たちなのかわからないが・・・おそらくどっちもだろう。)ものすごくうるさい。しかも気温は35度、部屋のベッドのバネが悪く、体がのめり込む感じ。なかなか寝付けないだろうと思っていたけど、けっこうぐっすり寝たようだ。
旅行代理店は開いているところもあるときいて、カオサンの通りに繰り出す。朝の宿も周囲は静かだったので、新年の祭りは続いていても、水かけ行事は終わったのかもと期待したが、通りに出てみると、あちこちで水の掛け合いをやっている。地元の人たちは、ツーリストにはむやみに水を掛けないことがわかったが、子供はそんな配慮をしないから注意しなければならない。
自分にかけられるのは別にいいけど、デジタル・ビデオ・カメラが心配なのだ。一応カバンの中でさらにビニール袋に入れてはいるけどね。そういうことで、せっかくビデオを持っていても、ビデオはカラーシャで使うために持っているんだから万が一壊れたら大変だからと、撮りたいのをじっとがまん。
前に利用した旅行代理店は開いていた。しかしバンコクとラホールの航空券のことをきくと、パキスタン航空が休みなので土曜日までわからないという。他に無数にある代理店は全部閉まっていた。あーあ、どうしましょう。(終)

パキスタンに戻る前の一週間

 日本を出る前の一週間は連日人と会う約束が入り、あわただしいものであったが、今後の活動の発展をうながすものばかりで、いっぺんにいくつもの春がやって来たような気持ちだ。

 4月5日(火)
 日本パキスタン協会主催、「丸山純&令子夫妻の、美穂子寄付金による活動報告会」に参加する。6~7年前から行ってきたチトラール県のドローシュの小学校での音楽や紙芝居、お絵かき教室など、パキスタンの学校では行われていない情操教育面での援助、あるいはプレイグラウンドの建設、またカラーシャ谷での活動などのこれまでの報告が、今回はビデオ映像で行われた。
 カラーシャ谷での美穂子寄付金による活動は、巡回図書箱、ルンブール谷の全学童に教科書配布、口承の歴史・伝統を子供たちに残すための援助、お絵かき教室などであるが、これらはルンブール文化福祉開発組合(私が代表者となっている地元のNGO)が行っているので、私も報告会でコメントを求められた。
 美穂子寄付金から、来年度分の口承文化を受け継ぐための援助金7万円(語り部と録音係への賃金)、そしてイスラマバードの画家ファウジアが賃金を寄付してくれた2万円と合わせて9万円を組合代表として預かる。
 日本パキスタン協会から会報に載せる記事の原稿を頼まれるが、新たに原稿を書く時間がないので、ホームページの前回の便りに少し手を入れてを流用してもらうことにする。

 4月6日(水)
 三鷹に行く。このホームページをやってもらっているデザイン事務所「アドリブ」の沢渡嘉明さんを訪ねる。その沢渡さん、そして写真集の発送・会計を手伝ってもらっている鈴木いさ子さんと三人で、下連雀4丁目にあるフェアトレード店「るま・ばぐーす」に行く。「るま・ばぐーす」はフェアトレードの輸入雑貨を販売をしているだけでなく、手作りのお菓子やおいしいコーヒーも飲めるようになっている楽しくて素敵なお店である。こちらのお店と村の現金収入源の活動が将来つながっていけるようにと、店長の岩佐さんに谷で作った手すきの紙や織物の製品をお見せしながら話をする。
 「アドリブ」に戻り、ホームページの便りの更新をブログで私自身でできるように、沢渡さんから教わる。

 4月7日(木)
 カムラン・ニヤズ・パキスタン大使との面談のためにパキスタン大使館へ。大使はとても気さくな方で、以前ボンボレット谷に行ったことがあるそうで、カラーシャの生活のこと、援助などの現状など、アブドゥール・ワヒード・カーン広報官も交えて話がはずんだ。私がパキスタンのプロモーションにも一役かってるので、大使館の方も今後、情報交換などで協力したいと言っていただいた。
 その後、ICLC(国際識字文化センター)の代表者であり、ミャンマーから帰国されたばかりの田島伸二氏のところを訪ねる。田島氏は「ウルドゥー語の権威であられた故鈴木教授の支援金で建てられたファイサラバード刑務所のキラン図書館に続いて、ペシャワールの刑務所にも新たに造りたい。同じ北西辺境州に住むわださんは、ペシャワールに関してもくわしいので協力してほしい。」とお願いされた。さらに、今個人的に建設している「多目的ホール&作業部屋」の中に、キラン図書棚を設立するための援助金を、故鈴木教授の支援金の中から協力したいとのお申し出があり、多目的ホールのよりよい充実が約束されてほんとうに喜んでいる。

 4月8日(金)
 上野にある都美術館で開かれている「光風会展」を、静江さんと観にいく。この展覧会に毎年出展している新潟の日展画家・本間ケイ女史からご招待いただいたのだが、実は本間さんは以前私がコーディネイトしたNHKテレビ「アジア染織紀行」のカラーシャ族の番組を観てひらめきがあり、その後のNHKテレビ、チョウモスの祭りのドキュメンタリー番組「太鼓に響く歌声」でさらに興味が高まり、今回の私の東京での写真展にも駆けつけてくださった方である。本間さんは7月にルンブール谷の私の村を訪ね2週間ほど滞在される予定で、「カラーシャの女性を描きたい」という数年間の彼女の思いが、実現することになると思う。

 4月9日(土)
 2003年にアルテ・クルブとICLCの主催で、カラーシャの子供たちが手漉きの紙の上に天然顔料で生活や祭りの絵を描いた作品の展覧会「パキスタン少数民族絵画展」が川越市の三番町ギャラリーで開催された。その縁でアルテ・クルブ代表の草野夫妻のご好意で、ギャラリーでの企画展覧会の時などで、手漉き紙のカードを売っていただいている。
今回は、昨年の新製品である樫やクルミの木の皮で作った厚手の紙フレームに織りの紐を飾った作品や紐を縫い付けた袋も追加として置いていただくことになった。
 草野夫妻は設計事務所を営む建築士であるが、現在進行形の多目的ホール&作業部屋について話をしているうちに、屋根の話になった。カラーシャの家屋の屋根は、梁の上に平板を敷き、その上に枯葉やおが屑を敷き、上から土を被せるのが伝統的なやり方である。だから屋根は平らである。しかし近年は傾斜のついたトタン屋根が入ってきつつあり、これは景観をそこない、私は好きではないが、冬に雪かきをしないですむという利点がある。
私はいずれ資金があれば、一階の多目的ホール&作業部屋の上に自分の部屋と客部屋を造りたいと思っているが、どういう屋根にしようか迷っていると草野さんに言ったら、「それでは、杉の皮を葺けばいいですよ。」とすばらしいアイデアを下さった。地元には木の皮を葺いた屋根はないが、人々が知らないだけで、試みてみる価値はあるのではないだろうか。
 その後、下北沢の自然食レストラン&飲み屋「ぐ」に行く。宮沢賢治のひとり語り-賢治の世界の出前公演を千回以上行ってきた林洋子さんと待ち合わせだ。洋子さんの生の声と生の音楽による語りは、日本全国にとどまらず、インドやインドネシアにての海外公演も行っている。いつも元気と情熱の塊りのような洋子さんは、愛猫モモが亡くなったばかりで悲しみのオーラにつつまれていた。
 しかし、「いつか洋子さんに私たちの谷で出前公演をやってもらいたい」という話をしたら、洋子さんも「私も行きたいと思っていたんだけど、再来年にバングラディシュ公演を計画をしているけど、その時に足を伸ばしてパキスタンまで行ってみようかしら」と、実現可能な話になり、洋子さんの悲しみのオーラはその時は薄くなり、私もすっかり盛り上がってしまった。再来年だったら、多目的ホール&作業部屋もできているだろうから、受け入れ側のタイミングもばっちりだ。(終)

写真展を終えて


私の職業は写真家である(いや長い間写真で稼いでいないので、元写真家だったといった方が正しいかもしれないが。)しかしながら、1987年に初めてカラーシャの谷の一つ、ボンボレット谷に入った時には、実はちゃんとしたカメラを持っていなかった。恥ずかしながら、その数ヶ月前にチベットのラサで愛用のズーム付きペンタックスを盗まれてしまったので、カメラバッグには役立たずの交換レンズ2本とストロボが入っていただけだった。つまりボンボレット谷へは、?カラーシャ族の写真を撮ろう?という目的で入ったのでは全くなかった。まあ、だから逆に、カラーシャたちとの最初のコンタクトが、?いい写真を撮ってやろう?というりきみがなくて、私自身もリラックスすることができ、自然体ですんなりいったのかも知れないのだが。
 その後、ビザの書き換えで谷から都会に出た時に、ラホールまで遠出して、中古のペンタのボディを買ったのだが、やっと写真撮影ができるようになってからも、私は写真家として発表する写真というよりも、むしろ谷の人たちを喜ばせるためのスナップ写真を撮っていた。というのは、パキスタン人であれ、外国人であれ、谷にやってくるツーリストはカラーシャたちの写真を撮りたがる。写真を撮りたいがためにお金を渡して、カラーシャに悪い習慣をつけるツーリストもいる。何にせよ、撮った写真をわざわざカラーシャに送ってくれるツーリストは数少ない。撮られるばかりで、撮られた自分の写真も見ることができないなんてあんまりだと、憤慨と同情の気持ちを持った私は、ネガ・フィルムで撮影して、撮ったものはペシャワールに出た時にプリントにして、写っている人に渡すように心がけた。祭りや何か特別な行事の際には、後々のためにポジ・フィルム(スライド)を使ったが、数は少なかった。
 数年経ってから、日本の友人から新しいカメラをプレゼントしてもらって、カメラが2台になってからは、徐々にポジ・フィルムで撮影することに重点を置いていったが、それでも年間で10数本ぐらいしか撮っていない。滞在10年を過ぎる1997年あたりから、ネガにせよポジにせよ、写真を撮ること自体が少なくなってきた。どういうことかというと、この頃から自発的に行ってきた共同体での活動に気力と時間を費やすことが多くなり、ついつい写真を撮るという作業が後回しになってきたのだ。
 大体、カラーシャの民族衣装を着て生活をしていると、とてもカメラなんぞをぶら下げて歩く気にならない。まあ、日本の着物を着て、カメラ抱えて写真を撮っているようなもので、どうしてもやりにくい。写真を撮るために滞在しているわけでないので、つい生活が優先してしまう。例えば、水汲みに行くときまでカメラを持っていくには面倒くさくて持っていかない。邪魔でしょうがなくなる。ちょっとその辺に置こうにも、カラーシャ谷の環境はどこに行っても土埃が多く、置き場がない時もある。もちろん長い間カラーシャの中にいて、被写体への新鮮味が薄れてきたということもあるだろう。
 そういうことで、写真家というわりには、撮った数は少なくて、これまで17年間でネガ、ポジそれぞれ120本ぐらいだろうか。さらに、2年前に弟にデジタル・ビデオ・カメラをもらったので、昨年なんぞは一眼レフカメラで写真を1カットも撮らなかった。何かの行事やめずらしいことに出くわすと、ついデジタルビデオで撮ることが多くなり、益々カメラを持ち歩くのが困難になってきたのだ。
 おっとっと、写真展の話をしようとしているのに、自分が写真を撮らないという話をしてしまった。

―写真展に行き着くまで―
 まあ、とにかく、撮った写真の数は多くはないものの(同じシーンをたくさん撮らないし)、それでもカラーシャの生活の中での祭りや生活は、女が関われる部分はおおよそ撮った。そろそろこれらの写真を使わないと、フィルムが痛むのではと心配し始めたのが4年前で、いろいろ悩んだ末に、「写真集を出そう」と決心した。
 世界の様々な情報で飽和状態になっている日本で、知名度のないカラーシャの写真集を無名の私が出すのはまず無理だろうということもあったが、それよりカラーシャのことをまず、パキスタンの人やパキスタンに住む外国人に理解して欲しいという思いで、英語版でパキスタンで出版することにした。出版社探しや費用の問題、そして9月11日のテロ事件の余波などで予定が遅れ、写真集「カラーシャ/その生活と伝統」がラホールの大手出版社、サンゲミール社から出版されたのが2003年6月である。
 この写真集は、ハードカバーの表紙の角が多少つぶれていたりするものの、パキスタンの水準からすれば、中身は予想以上の出来だった。イスラマバードでの出版記念会には日本大使館の公使、少数派代表国会議員他がご臨席下さったし、各新聞にも取り上げられた。またパキスタン・テレビの新刊案内の番組にも出演した。
 この写真集の純益は、現在建築中の「多目的ホール&作業部屋」の経費に使われるのだが、評判になったわりには写真集は売れない。1冊1200ルピー(2400円)という価格がパキスタンでは高いということもあるのだろう。お呼ばれパーティのための服には何千ルピーも費やすパキスタンのお金持ちも、本のためにはなかなかお金を出さない。本を買ってくれる可能性があるのはカラーシャ谷にやって来る外国人旅行者だが、9・11テロ以来、外国人旅行者はぐんと減り、チトラールやカラーシャ谷のホテル、ゲストハウスは閑古鳥が鳴いている始末で、私が買い上げた写真集もなかなか売れない。
 頼みの綱は日本で売ることだ。日本では、長い間私の活動を支援してもらっている鈴木いさ子さんが中心となり、「?カラーシャ?出版後援委員会」が立ち上がり、写真集の国内発送と経理をボランティアで手伝ってもらっている。JICAの専門家でイスラマバードに赴任されていた群馬県新治村の矢島淳吉夫妻にも多大な協力をしていただいている。しかしながら、パキスタンから日本に送った写真集はまだまだ在庫がある。
 昨年の一時帰国の際に、「写真集をもっと売りたかったら、やっぱり写真展やらなきゃだめだよ。」という友人たちのアドバイスがあって、コニカ・ミノルタ・ギャラリーに応募に踏み切った。日本を出てパキスタンに戻る途中のバンコクで、審査に通ったという知らせをきいた。コニカ・ミノルタの担当者からの写真展に関しての書類を手にしたのは、谷に着いてしばらく経ってからだったが、すでに谷に戻り、カラーシャ寄りの思考回路になっていた私は、「ふうん、来年2月5日に写真展をするのかぁ」と人ごとのように実感がなかった。
 昨年10月末、コニカ・ミノルタの担当の方から、写真展の案内はがきに関してのメールが来て、ようやく「写真展を東京の有名な写真ギャラリーでするんだ」という実感が多少湧いてきた。私がいるルンブール谷は電話線がないので、メールはジープで2時間半かかるチトラールの町で見る。11月になると、担当の方から展示写真のプリント、加工に関してのEメールが続々と入ってくるけど、私はチトラールには月に1、2回行くだけなので、どうしてもメールの返事が遅くなる。東京で秒きざみに動いている中で、私の住む環境設定をわかってほしいといっても無理な話で、この時はほんとうに担当の方をいらいらさせたと思う。
 11月末に、「展示写真のプリント・加工のために、12月22日までにポジ・フィルムを収めてほしい」とのメール連絡が担当の方から入り、やっと私はあわてた。ポジ・フィルムは谷の私の部屋にある。それをどうやって期日内に東京に納めるか。はじめは、海外宅配便でラワルピンディーから東京にフィルムを送って、ちゃんと着いたという情報をもらっていたたので、私もそうしようと思った。ところが、「9割は届いても1割のリスクがあるから、絶対止めろ」とイスラマバードの日パ旅行社の大住さんに言われたので、一応確認のために宅配便のオフィスに電話で問い合わせをした。
「もしもし。東京への宅配便は週に何便出ているのですか?」
「東京へは毎日出てます。」
「えっ、でも、直行便の飛行機は週に2便なのに、毎日というのはおかしいじゃないですか?」
「ノー・プロブレム。日本に送る便は全部、まずドバイに送りますから、毎日大丈夫です。」
「なに、中近東のドバイにいったん送る!!」
 これで、宅配便で送ることはすっぱりあきらめた。それなら、自分がフィルムを持って早めに日本に帰ろうかと思った。ただし、私はラホールからバンコクのタイ航空の片道切符を持っているので、そのルートで帰らねばならない。あいにくずっと満席で12月17日のバンコク行きしか取れなかった。17日の夜にバンコクに着いても、すぐに東京行きの安い航空券の席があるとは限らないので、チトラールからバンコクの何軒かの旅行代理店に電話したり、ファックス出したり、バンコク駐在の友人に電話したりしたが、通じなかったり留守だったりで、うまくいかなかった。
結局、イスラマバードに着いてから、元ペシャワール会、後にアフガニスタンの日本大使館と国連で働いていらした藤井さんが、パキスタン航空の成田直行便で日本に帰国するとわかり、彼にお願いして、ポジを成田まで持っていってもらい、成田からコニカ・ミノルタさんまで宅急便で送ってもらって、やれやれ、めでたしめでたしとなったわけだ。
バンコクに着いた翌日、安い航空券を購入する。東京に向かう便は、その翌日に1席空いているだけで、あとは年末までいっぱいだという。暖かいバンコクの空気を楽しむ余裕もなく、翌朝にバンコクを発って、夜に東京に着いたので、自分でフィルムを持ってきても可能だったわけだが、でももし、あの1席がなかったら、帰国するのは年明け、いや、ひょっとすると、バンコクで長いこと時間をつぶすのもつまらないから、久しぶりにビーチでも行こうと、ピピ島あたりに行っていたかも知れない。そうすると、津波に巻き込まれていた可能性も考えられないこともない。ほんとうに人の運命なんて、ちょっとしたことで決まるものだと、今さらながら思わずにはいられない。遅ればせながら、津波で犠牲になられた方々のご冥福をお祈り致します。

―大成功のうちに幕を閉じるー
 東京のコニカ・ミノルタ・ギャラリーでの写真展は、2月5日から14日まで開かれたが、9日間で12,589名の入場者があり大成功だった。この数はギャラリー入り口のセンサーでカウントされるので、私自身が出たり入ったりするのも数えられているので、実際はこれほどにはいかないだろうけど、それにしても、たくさんの方々に来ていただいて嬉しかった。親戚、同級生、仕事仲間、飲み友達、パキスタンで知り合った方々等、めったに開催しない写真展なので、知っている方全部に是非観ていただきたいと、知らせを出したのが功を奏したのかもしれない。それだけでなく、コニカ・ミノルタ・ギャラリーの知名度、新聞の展示会案内に載せてもらったこともよかったと思う。
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(写真挿入:東京の写真展) 
 福岡のNHKギャラリーでの写真展は、3月8日から13日の6日間開催された。NHKという知名度は高いものの、福岡は私にとってほとんど未知の場といっていいほどだった上に、開催日の数日前に九州に行ったので、宣伝活動ができず、入場者は少なかった。それでも、同級生、ペシャワール会の方たち以外にも新しいつながりができたので、やった甲斐はあったと思う。嬉しかったのは、飯塚市から来てくださった80歳の女性が写真集を買って下さり、その数日後にまた写真展にお見えになって、「夜寝る時にあなたの写真集を見ながら寝ると、とても気持ちが落ち着きますのよ」とおっしゃったことだ。自分が撮った写真が、人生の何たるかをわかってらっしゃる年配の方にこういう形で気に入ってもらって、密かに感動してしまった。
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(写真挿入:福岡の写真展会場)
 この女性には手持ちの写真集を会場で渡したけれど、コニカ・ミノルタ・ギャラリーも、NHKギャラリーも写真集を販売することは禁じられていた。欲しいという方から注文を取って、後で送るという形にしたからというわけではないだろうけど、それほどの数は売れなかった。写真集の販売促進という意味では成果がなかったが、より多くの方々にカラーシャを紹介することができ、また新しい人ともつながりもできて、大変に有意義な場であったと言えるだろう。もう一つよかったことは、今回写真展をやって、新たにまた写真を撮りたいと思うようになったことだ。多少民族衣装でカメラを持つのが不便であっても、撮りたいと思えば撮れるはず。新鮮な気持ちでトライしよう。
 私は4月12日にバンコクに行き、そこからラホールに飛び、イスラマバード、ペシャワールで人に会ったり、用事をしながら谷に戻る予定です。4ヶ月間留守をしていたので早く帰りたい気持ちもありますが、チトラール地方の今年の冬は例年に環をかけて天候不順で、ペシャワールからの飛行機もキャンセル続きだそう。無事にたどり着けばいいのですが。今年は「水力発電所改善プロジェクト」と「多目的ホール&作業場建設」を仕上げる仕事が待っているので、気合を入れて頑張らねば。(終)

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