カラーシャの谷・晶子便り

パキスタン北西辺境州の谷に住むカラーシャ族と暮らすわだ晶子の現地報告。

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病気と薬・多目的ホール建設などなど


病気と薬
 老いも若きも、風邪を引いてる人や具合の悪い人がやたら多い。すべての家に病人がいる。静江さんが医者の薬の辞典が入っている電子辞書を持っているので、私の手持ちの薬の効能や使用量、副作用などを静江さんと一緒に調べる。
 この数日下痢で具合が悪かった義理の伯父が、下痢だけでなく熱も出てがたがた震えているというので、さきほど調べた薬の中のペニシリン系の薬を飲ませる。夜に伯父の様子を見に行ったら、ジャマットが村の店屋の兄さんから買ったという薬を3種類飲ませようとしている。よく店で見かける鎮痛剤と感染を抑える薬、もう一つは何だかわからない薬だ。せっかく私の薬で様子を見ようとしているのに、横からああだこうだと、医者でもないどころか読み書きもできない人が、薬を見たてたり、注射を打ったりとよけいなことをするから(もちろん、彼らは良かれと思ってだが)危なくてしょうがない。
 オーストラリア人の旅行者から下痢の時の脱水症状を緩和するORSの粉末を分けてもらい、沸騰させた湯をさまして、ORS液を作って、伯父に飲ませようとするが、いくら薬だといっても、まずいからと飲みたがらない。外国人の薬だからすごく効くから飲むよう、なだめすかしてようやくコップに半分ほど飲ませる。普通、朴訥で人の良いカラーシャも、病気になったらけっこう頑固なのだ。
翌朝、伯父さんの具合は同じだったが、1日では薬は効かないだろうと、静江さんと相談して、昨日と同じ薬を飲ませる。お昼、多少良くなったらしく、伯父さんは起きあがってストーブのそばの椅子に座って少量の食事もした。ところが午後に伯父さんのところに行くと、伯父さんは点滴の最中である。ディスペンサリーの保健夫といえ、これまでどんな薬を飲んだのかも確認しないで、点滴やるとは無茶な話だ。しかも点滴の前に注射も打ったという。点滴を確認すると、水分と栄養補給のためのもので、ORSも飲みたがらない伯父さんには必要な処置だったと思うが、注射は何だったのかわからない。別な薬をあげたり、注射をする時は、私たちも呼ぶようにと念を押す。
 保健夫が置いていったと思われる薬が4種類あったので、また静江さんの電子辞書で調べてもらう。すると鎮痛剤と胃腸の炎症の薬の他に、何と性病のトリコモナス菌に効く薬が、同じ成分で別々に2種類あった。「ひどい下痢で食事もできずに弱っている年寄りに、性病菌に効く薬を、よりによって同種を2錠も飲ますとは!」とあきれる。後で、あれは伯父さんの薬ではないとわかったが、では誰の薬?ときくと、不明である。
 昨日少し回復したように見えた伯父さんはまた調子をくずし、少し血が混ざった水状の便を垂れ流したという。菌を抑える薬が効かないということは、菌がいなくて、ただ腸の働きがおかしくなっているだけなのかもしれないと、普通の下痢止めの薬を飲ませる。なんだか実験台にしているような気もしないでもないが、伯父さんは車酔いがひどくて、チトラールの病院に連れて行くこともできないので、仕方がない。結局普通の下痢止めの薬が効いて、伯父さんは回復した。やれやれである。
 昔は薬もなかなか手に入らなかったのが、近年は谷の万屋でも薬が手に入るようになった。売る方も使う方も字も読めない人々だ。薬は魔法のようにすぐ効くものと思っていて、すぐに効かないと、村の誰かからもらった別な薬を飲んだりする。副作用のことや、薬を飲みすぎると肝心な時に効かないということは頭にないのでほんとうに危ない、怖い。静江さんと「早く、多目的ホールを完成させて、薬を飲むときは、いかに注意が必要かという勉強会を、何回も何回もやらないと、この現状は改善しないね。」と話す。我々のルンブール文化福祉開発組合は、薬を施す活動ではなくて、薬を飲まなくてよい環境にする活動に重点に置いているので、多目的ホールができたら、病気予防のためのわかりやすい基礎講座も並行してやらなければと思う。

現金収入源の作業

 こっちに来てから晴れの日が続いていたが、ジョシが終わって三日目から天気がくずれてくる。外は肌寒いので、部屋で内職仕事を始める。まず昨年未完成で置いてあった手すきのカードに、プリントしたカラーシャの写真を貼り付け、写真入り手すきカードを10枚ほど完成させる。
 次の日からは、ミシンを窓際の机に置いて、手織りの紐を縫い付けた「みやげ用小袋」作り。重い手廻しミシンと裁縫道具に机の上を占領されて、ノート・パソコンを開くスペースもないし、病人の家々を廻って薬をあげたりしていたら、今度はこっちが風邪をもらって扁桃腺がひどく腫れ、2,3日調子をくずしたので、コンピューターの作業はお休み。
 

教育促進活動の担い手ヤシールに静江さんがサポート
 
 5月17日(水)に美穂子寄付金とジャカランダの会の援助金で、中高校生たちに無料配布する教科書を購入しに、ヤシールがチトラールに行く。1997年からおととしまでは、小学生から高校生まで、谷の学童全員に教科書を配っていたが、昨年から小学生にはパキスタンの政府が教科書を配るようになったので、教科書購入の予算が限られている私たちの小さなNGOとすれば助かる。そうでなかったら、予算が限られている、この教科書配布の援助活動は、今年あたりで終わっていたかもしれない。
 コシナワスの口承歴史をカラーシャの生徒たちに伝えるプログラムにも関わっていて、私たちのNGOの教育関係の活動の手となり足となってくれているヤシールは、昨年までデンマーク人の援助で給料をもらって、カラーシャ小学校の教師をしていたが、今年からその援助が終わってしまった。それでも子供に教えることが好きなヤシールは、無給で今も教師を続けている。その話をきいた静江さんが、ヤシールがカラーシャの学校でカラーシャの言葉で教えることは、大変に有意義なことだから、一年間は彼女がヤシールの給料をサポートすると申し出てくれた。ヤシールだけでなく、ルンブールのカラーシャにとって、大変ありがたい話である。

水力発電改善プロジェクト

 ジョシ祭前から3日間バンダラ氏一行のお供をした後、今度は英国人グループ・ツーリストのお供で山歩き一泊、そしてボンボレットの葬式と、ずっと忙しく歩きまわっていたサイフラーから、水力発電改善プロジェクトのこれまでの支出の報告をきく。機械類を注文した際の支払の件、税金の件など、全く予期していなかった問題もあって大変だったようだ。発電所への水路の改築工事は4月に始まっていたが、天気が悪かったり、ジョシの祭りのために中断していた。
 5月21日に工事再開。これまでの工事の様子を見に行く。水路の土手はすべて1フィートから1フィート半ほど高くなっていた。取水口から300フィートぐらいのところはすっかり水路の土手が決壊していたので、一から石積みをすることになったというが、うまく計画書の通りに進んでいる。


 いつになったら多目的ホールの屋根が?

 昨年12月中に屋根をつけて、冬の間に大工さんが戸や窓枠を作り終えている予定だった多目的ホール&仕事部屋、雪多き異常気象で、屋根すらできていなくて、作業は足止めを食っている。4月半ばから大工さんは作業を開始したが、雨が続いたりであまり進んでいない。天気になったら、ジョシが始まったし、その後はボンボレットの親戚の葬式と続き、ルンブールに帰ってきたとたん、大工さん、熱が出てしまった。その2日間は天気が良かったのにまあ病気だったら仕方がない。
 静江さんと大工さんの家に見舞いに行ったら、寝ているはずの大工さんはおろか、家には誰もいない。しばらく待っていたら、大工さんは「家に薪がなかったから」とけっこう重そうな丸太を肩に抱えて帰ってきた。「具合が悪いんだった肉体労働しなさんな。」と言いたいところをおさえて、具合をきくと、さっきディスペンサリーで注射を打ってもらったと言う。明日具合が良くなったら仕事に来るというので、とにかく、床で安静にしてるようにと念を押す。
 お見舞いが効いたのか、翌日5月22日、大工さん、まだ本調子ではないらしいが仕事に来る。天井の板を張る作業。しかし昼食を出してまもなくして、雲行きがあやしくなり、あっという間に雨となる。ということで2時に仕事はおしまい。その後2日間、天気も大工さんの具合も今一で仕事は休み。
 ジャマットに任せていても、なかなか進まないので、静江さんとこれからの仕事の段取りを再検討する。
 もうすぐ6月だというのに、昨夜の室温は14度だった。お天道様はいったいどこに行ったんじゃ?

 
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バラングル村に帰る/ジョシ祭


5月11日(水)
 静江さんとムサシ、そしてペシャワールの空港で会ったという同行のフランス人旅行者は、午後3時に予定より3時間ほど遅れて到着。ディールでランド・クルーザーの乗客がいっぱいになるまでさんざん待たされた後やっと出発したら、ランド・クルーザーが故障して、代わりの車を待って乗り換えたりしたので遅れたらしい。ラワリ峠のディール側は道が悪くて、途中ブルドーザーにロープを付けて引っ張ってもらわなけえればならなかったらしいが、数メートルにも立ちそびえる峠の雪の壁や、辺りの景色が感動的だったので、飛行機を逃しても惜しくはなかったと静江さんたちは言う。
 チトラールでやる用事もあるので、今晩も一泊。

5月12日(木)
 拙著「カラーシャーその生活と伝統」は出版にあったっての諸経費の元も取れていない状態だが、取りあえずの売上げの利益は「多目的ホール&仕事部屋」建設の資金と我々の活動資金に当てられる。従って、なるべくたくさんの写真集を売らねばならない。手持ちの在庫が少ないので、さらに写真集を20冊出版社に注文するのに、銀行で小切手を作って宅急便で送る。
 静江さんから今年も多目的ホール&仕事部屋建設の追加援助金千ドルをいただく。仕事の段取りが悪くて、出費ばかりかさませる現場責任者のジャマットに発破をかけるために、日本からわざわざ現場まで足を運んでもらっているだけでも感謝しているのに、さらに追加資金の援助までしていただき恐縮する。
 昨日、バンダラ氏の秘書からの手紙を受け取り、カラーシャの全家庭に渡す政府の支援金についての返事を、昨夜と今朝にEメールで出そうとしているのだが、うまくつながらない。コンピューター技師のタイフール氏の所に行くと、うまい具合に本人がいて(普通は留守が多い)見てくれる。メール・アカウントが今朝切れてしまったからだという。(でも昨夜だめだったのはどうしてだろう?)アカウントの更新手続きをして、ホテルに戻るが、やはりつながらない。結局つながったのは、午後3時近く。送信するのに1分。静江さんがチャーターしたジープに乗って、一路ルンブールへ。今回はチトラールから何と1時間半でバラングル村に着いてしまった。昔は3時間かかっていたのに、道幅が少し広くなったからだろうか?
 久しぶりのバラングル村は、相変わらずといえば相変わらずで、どこもかしこもビニールや紙くず、木屑のごみだらけで汚い。人々の顔や手も薄汚れていて、顔と手に挨拶のキスをするのも躊躇したくなるほどだ。もちろん挨拶をしないわけにもいかないのでするけどね。
 今年の冬は最悪で、雪もとてつもなくたくさん降り、毎日雪かきしなければならないだけでなく、各家雨漏りもひどく、家の中もびちゃびちゃ、大変なんてものではなかったと皆口を揃えて言う。明日から春祭りジョシが始まる。

5月13日(金)
 ジョシの祭りのために、昨日子供たちが集めてきたビーシャの花やクルミの若葉を、夜明けにジェシタク神殿や家々の戸口に飾る行事があったが、太鼓が濡れていたために、太鼓が登場せず、従って神殿に花を飾った後に、広場で若者や子供たちが歌や踊りを楽しむ場面はなかった。
 昼間、グロム村のマハンデオの下のシンモーで、少年が浄めの儀礼をし、その後、踊り場グリウで太鼓と共に、短い歌と踊りが7回子供たちによって行われる。

5月14日(土)
 今日はチュジャック・ジョシ(小ジョシ)。カラーシャ服を着て、髪もおさげを4本編んで(本来のカラーシャの髪型は前髪もおさげをするので5本)、ようやくカラーシャの里に帰った気がする。昨日から、村人たちに、祭りにむけて村をきれいに掃除するように言っているが、「この前掃除したばかり」と言って、みんな知らんふり。「この状態じゃ、カラーシャはやっぱり汚いと、外から来た人たちに笑われる」と、ヤシールを説得して、ようやくヤシールと子供たち数人が村の広場の掃除を始める。店が村の中にできてから、店の周りにお菓子のビニール袋が散らかるようになり、せっかくゴミ箱が設置されても、子供たちに使うように大人が教えないから、あまり役に立っていない。
 人々は家でヨーグルト状のミルクとタシーリの食事を取った後、グロムの踊り場に行って、1日中歌や踊りを楽しむ。午後2時に支援金の小切手を手渡しにバンダラ氏が来訪されるので、ルンブール谷の責任者の一人である私は、踊り場に行く暇もなく、氏とお客さまの到着を待つ。
 予定より遅れて、マイノリティ代表国会議員バンダラ氏、政府のマイノリティ担当秘書、英国ハイ・コミッショナー夫人他一行が到着される。バンダラ氏たちはすぐに支援金の小切手の支給に入り、私はコミッショナー夫人など三人のご婦人方の接待。
 ところが、ルンブール谷の全130世帯に小切手が配られるという話が、実はバンダラ氏の秘書のミスで(だろう)、89世帯にしか今回は支給されないことが判明。もらえない人の分は2ヶ月後に支給されるということだが、やはり、今回もらえない者は心穏やかであるはずがなく、当然のことながら一騒ぎ起こる。せっかくの祭りの日なのに、後味が悪かった。

5月15日(日)
 今日はゴナ・ジョシ(大ジョシ)。午後からはセレモニアスな歌や踊りが行われるので、これにはぜひ参加せねばならない。今年になって、チトラールのRCDPCの援助により、踊り場まで登る道に木枠の階段ができていて、もちろん前よりも登り下りが楽になったが、でも途中で階段が途切れていたのには興ざめ。どうして最後まできちんと仕事をしないのだろうか。 
 イスラマバードから国連で働く外国人スタッフやその家族が遊びに来ていて、その一行みんな私の名前を知っていた。先日の国連情報担当官アメラが、私の写真集の再紹介のレターを廻してくれたのが功を奏しているようだ。一行のうちの一人の女性からは、「あなたはワダさんですか?私はマチコ・ハチヤの友達です。」と声をかけられ、びっくりした。きけば、彼女は私の高校時代からの仲間でルンブールにも遊びに来たことのある八谷まち子の、昔の職場の同僚だった方の奥さんだった。私もご主人にはイスラマバードで会ったことがあり、日本びいきのフランス人の奥さんのこともマッチやアメラからきいていたので、なんだか初めて会った気がしなかった。
 私はデジタル・ビデオ・カメラを持っていたし、足が痛いのを理由に、結局踊りにはまじめに参加しなかったので、少しつまらなかったが(祭りは参加しなければおもしろくない。)、今年はいつもよりパキスタン人ツーリストが少なくて、こじんまりしていて、そういう意味ではよかった。唯一、ボンボレットに壮大な建物「カラーシャ・ドゥーラ(カラーシャの家)」を建築中のギリシャ人たちが率いてきたギリシャ放送局のカメラマンが、こちらがビデオを撮っている目の前に、大きい業務用カメラを立ちはだからせて、ずい分迷惑した。マハンデオの祭壇での儀礼の時も、そのカメラマンは儀礼を妨害するような行動をとり、長老たちに顰蹙をかっていたという。
 そのテレビ局の女性記者に、カラーシャ谷のツーリズムや将来についてインタビューを受けるはめになる。テレビに顔が出るのは大嫌いだが、断るとギリシャ人ワーカーたちが気を悪くするだろうし、この際、私の意見を言うのも悪くはないだろうということで応じる。つまりツーリズムはあっていいが、それで利益を受けているのは、ホテルの経営者やジープの運転手、店屋など周囲の回教徒ばかりだ。カラーシャは、ツーリズムに頼らないですむような小規模の地元産業を起こすことの方が重要。そしてそのためには若い層の教育が最優先であるということを話す。

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写真:大ジョシ祭の日、谷の上流と下流に別れて、女たちは横並びにステップを踏み、列の長さ(女の数の多さ)を競う踊りで多いに盛りあがる。

5月16日(月)
 今日はボンボレットの大ジョシだ。うちの谷の若い人たちは昨夕、ジープ3台でボンボレットに出かけて行った。それと別に、バトリックでお年寄りが昨日亡くなったが、ジョシの最中だったので、遺体を家の中に置いて戸を閉め、祭りが終わるまでそのままにして、祭りが終わりしだい葬式があるというので、バトリック出身の義理の伯母も村の長老格女性と一緒にボンボレットに行ってしまう。

5ヶ月ぶりのチトラール


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 写真:飛行機から見たラワリ峠

 チトラール行きの便はペシャワール空港を出発しても、チトラール空港に着陸するまでははっきりしない。私はいつも飛行機には運がなく、キャンセルが多いのだが、今回はちょっと出発時間が遅れただけで、無事チトラールに到着。チトラールは空気も爽やかで、暑くもなく寒くもなく、まったく言うことなしの気候だ。でも昨日は、谷ではすごい豪雨だったらしいが。
 サイフラーが裁判の件やら何やらでチトラールに来ていて、ルンブールのニュースをきく。まず、水力発電改善プロジェクトの方は、3月から水路の幅と高さを伸ばす作業が始まっていて、あと少しで終わる。陸路が開いたら、注文してある機械類を運び、タンクの改善作業、機械を運ぶための道作りなどがあるが、大使が訪問される7月にはかなりの仕事がはかどっているはずだという。問題は、予想以上の物価上昇。見積りで290ルピーとなっているセメントは、今や450ルピーに跳ね上がっているそうだ。私個人プロジェクトの多目的ホール&作業場は、屋根がもうすぐ被さるというところらしい。ジャマット・カーンに任せてあるから、何だか見るのが怖い気がする。
 ボンボレットのブルーン村とルンブール谷のうちの村の二人のおばあちゃんが、私の留守中に亡くなっている。両方ともによく知っているおばあちゃんだったので、年だったとはいえ、心が痛む。

5月7日(土)
 昨日は快晴だったのに、今朝は空いっぱい重い雲が立ち込んでいる。朝のチャイも飲まずに、パソコン作業。昨日チトラールのコンピューター屋のお兄ちゃんにアウトルックの設定をやり直してもらったので、マウンテン・インのオフィスでアウトルックは作動している。しかしインターネットのラインが調子悪くて、このブログ便りの管理のページを開けれない。せっかく、せっせと打ってる原稿を更新できず、どんどんたまっていくばかりだ。更新作業をあきらめて、メールの返事打ちをやってると、突然すごい風が吹き、横叩きの雨が降り始める。そしてお決まりの停電。これで、すべてがアウト。
 寒くなってきたので、布団にもぐって空を見ていると、いつのまにかうとうと。こりゃ、いかんと 、布団から出て、雨も一時小降りになったので、銀行に行く。朝食兼ランチでいつものゴラムの食堂へ。私のジープもジャマット・カーンもチトラールに来ていたが、チトラールでの用事が済んでいないので、荷物だけ持っていってもらう。佐賀の両親にもチトラールに着いたという電話をかけようと、電話局に行ったら、コンピューター化して電話かけるのにも安くて便利になっていたが、停電で機能せず。
 電気がくるのを待つだけで、何もやることがない、これが一番つらい。外をうろつくにはまた雨がひどくなっているしで、ホテルのマネージャーとおしゃべりして時間をつぶす。

5月8日(日)
 ホテルの部屋の窓から外を見ると雲がいっぱいなので、今日の飛行機は欠航だなと思っていると、驚いたことに時間通り飛行機はやって来た。外に出てよく見ると、ラワリ峠付近には雲がなかったので、納得する。6日に成田を発ち、その夜イスラマバードに着いて、昨日ペシャワールに来ているはずの静江さん、昨日の便が運行していれば今日チトラールに飛べたはずだけど、昨日は雨で欠航だったので、昨日の乗客が今日乗るので、今日は無理だろう。連絡を取ったら、やはり明日の飛行機になりそうだということ。だから私ももう一泊して待っててくれと言われる。
 実は今日は日曜日でルンブールからのジープも来てなく、ちょっと大変だけど、でもどうにかしてルンブールまで帰ろうと荷物もパッキングしてしまったが、(部屋代出すから)待っていてと言われると、即オーケーしてしまう。
 しかし午後になると、また雨がけっこうな勢いで降り出し止みそうにもない。部屋からレセプションに行くまでにずぶぬれになりそうで、食事にも出ず、じっと部屋にこもっている。
 夕方、泊り客のIUCNパキスタンの顧問をしているスイス人とその友人と一緒に夕食を取りながら9時まで話す。IUCNはWWFや地元の機関と組んで、環境保護、絶滅寸前の生物の保護の活動を、地元のコミューニティを巻き込んでやろうとしているのだが、ことパキスタンに関しては地元の根っこの人々の理解を得る前に、口ばかり達者な上層の人たちがプロジェクトを横取りしてしまうので、なかなか簡単にはいかないという話や、スイスの話やらに花が咲く。
 しかしスイス人のバイリンガル能力には驚かされる。一人はヨーロッパの7言語の他に、ハイチ語、ネパール語を話せ、もう一人はヨーロッパの5,6言語がわかるという。私の古い友人のスイス人夫妻も、彼女の方は同時通訳の免許をもっているほど日本語ぺらぺら、彼の方は中国語、韓国語、ロシア語、タミール語、アラビア語、もちろん二人とも英語、フランス語、ドイツ語などのヨーロッパの言語も話す。それに比べて日本人は・・・
5月9日(月)
 一体こんなに大量の水が、空のどこから来るんだろうとあきれるほど、雨が降り止まない。静江さんを期待していたのに、飛行機は当然キャンセル。昼になって一時止んだが、またどうなるかわからない。この分だと谷に行く道路も決壊しているかも知れない。むむむ。
  チトラールで時間ができたので、RCDPC(Rural Community Development Program Chitral) を運営しているテモール・シャーに会いに行く。実はペシャワールのSPARCを訪ねた時に、SPARCの協力機関CRC(子供の権利のための委員会)がチトラールにあると知り、誰がやっているかと訊いたら、昔から顔見知りのテモール・シャーだと言うんで、久しぶりに彼からも話をきこうと思ったのだ。
 彼の事務所の入口のサインボードをよく見たら、何と「SPARC/CPC」とちゃんと書いてあるではないか。その下にRCDPがある。彼は私の顔を見て、「まったく今まで音沙汰なしで。わしらから逃げてたんだろう。妻もしょっちゅう、あんたのことをきいてるのに。」と大声で責められる。実は彼の事務所はノン・フォーマル教育や未成年者の権利のことや、小規模のNGOをまとめることやら、あんまりいろいろあり過ぎて、かえって彼の仕事の実体が今一つよくわからなかったので、わざわざ訪ねたりしなかったのだ。
 しかし今年になって、彼はカラーシャ伝統文化を護るために、ジェシタック神殿の修理や踊り場への道の工事などの小規模プロジェクトを立ち上げ、カラーシャにリリースしたときき、まんざら口ばっかりではなく、実のあることもやっているのだと思い直した。チトラールの刑務所にも足を運んで、医薬品を援助しているというので、今度私も連れていってもらうことにする。

5月10日(火)
 やはり谷までの道路は、おとといから昨日にかけて3ヶ所決壊して、ジープが通れなくなっていた。ジョシの祭りでお客も来るし、カラーシャたちも買物に出なければならないので、すぐに道路を修復するよう、谷の道路メインテナンスの担当者がチトラール政府に働きかけたので、今日、修理が始まったそうだから明日は直るだろうとのこと。でないと、1週間経ってもそのままだったりする。
 今日はすっきり快晴で、飛行機は絶対来るぞと確信したのに、風が強いということでまた欠航。従って静江さんは今日も来ない。飛行機を待ってもあてにならないから、ラワリ峠が開いたので、ムサシと一緒に陸路で向かうらしい。それで私は今日もチトラール。5日目である。こんなに長くチトラールに滞在したのはめずらしい。日本を経ってそろそろ1ヶ月になろうと言うのに、まだ我が家に帰れないとは。

やっとペシャワールまでたどり着く


5月2日(月)
 ナショナル・ブック・ファウンデーションの副会長さんが、パキスタンを代表する書籍の一つとして、写真集「カラーシャ」をナショナル・ブック・ファウンデーションで売ってくれるというので、(ただし卸値でだが)サンゲミール出版社に連絡して、20冊分の代金と送料を銀行小切手にして書留で郵送して、家に戻ったらお昼すぎ。
 ファウジアは明日のSAARC婦人の日に向けて、国立会議場の壁にずらりと飾り掲げるバナーの作成に、テーラーのおじさん、看板屋さん、アートクラスのボランティア女性などを動員して大忙しだ。数日前に婦人開発省でタイアップして仕事をしているレハナから、突然作成の依頼があったという。どうも私がレハナに日曜日に会った時に、ファウジアの個展のパンフレットをあげたので、レハナはファウジアを思い付いて仕事を頼んだらしい。しかし、7カ国が参加する大きな会議なのに、数日前に行き当たりばったりで会場の準備をするとは、いくらパキスタンでもあんまりだと、ファウジアと首をかしげた。おかげでファウジアは毎晩夜なべだ。
 お昼ご飯の後、ペシャワール行きのコーチにカラチ・カンパニーから乗る。新聞を読み始めるとすぐにこっくりしてしまう。ふと目が覚めたら、コーチは昨年できたばかりのハイウェイを滑らかにスイスイ走っている。GTロードだとタキシラ、アグデル・ハッサン辺りまで、町中を通ったり、トラックの修理屋や大衆食堂などが道路の両側に並んでいて、えらく埃っぽいのだが、新しいハイウェーの脇には金網のフェンスが続き、その向こうは緑の平原が広がっていて、ときどき遠くに丘の上に立つ小さな集落が見えたりする。寝ぼけた頭にはけっこう童話的な風景に見え、4年前に旅行したイタリアのトスカーナ地方を走っているような気分になったりする。昼に雨が降って、空気が爽やかで緑も映えていたので、よけいにそう思えたのかもしれない。
 パキスタンもけっこうやるじゃん、と思っていたら、NWFP州の手前辺りから、元のGTロードに合流してまった。NWFP州にに入ったら、道は埃もうもう、行き交う車もマナーなしのむちゃくちゃ運転。やはりどう贔屓目に見ても、NWFP州はパンジャビ州よりも遅れていると認めざるを得ない。
 五ヶ月ぶりのペシャワールだが、その空気の悪さはひどくなる一方だ。そして道端もゴミが散らかり、ものすごく汚い。ペシャワールの雰囲気は好きだったのに、こうまでだと、早く逃げ出したくなる。
ホテルはシングルが一杯だったのでダブルの部屋を取る。広さはあるけど、日本、バンコク、ラホール、イスラマバードから来たから、ひどく薄汚く感じる。これがチトラールから来ると、同じホテルでも逆にりっぱに感じるからおもしろい。
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写真:ホテルから見た風景

5月3日(火)
 朝は雨が降っていて、窓から外を見ると、道がぬかるみべちょべちょだったので、外に出るのは後まわしで、ホテルからいろいろ電話連絡。ペシャワール刑務所にキラン図書館を造るに当たって、情報と協力を得るために、パキスタンの中で一番大きい、子供の権利のために動いている機関SPARCのペシャワール支部に電話するが、責任者も他の英語が通じるスタッフは留守だったので、明日訪ねることにする。午後に私のカラーシャの甥っ子のムサシ・ディンが来る。彼はペシャワールの名門エドワード・カレッジで勉強していて、私もささやかだがサポートしている。その後、マルダン出身の古い知り合いの弁護士カリッド・カーン氏も訪ねてくる。彼とは長い間音信普通だったが、2月の東京の写真展に来てくださった柴田夫妻から電話番号を教えてもらって連絡がついたのだ。
 二人が帰った後、ねかるみだった道も乾いていたので、洗濯するのに洗剤を買いに出る。このあたりはごみごみしているわりに、売っているものが偏っていて、タイヤやバイクの部品屋に混じって、羽をむしり取られた丸裸のチキンがぶら下がるレストランがポツポツ、もっと歩くと小さな薬問屋が軒を並べる。ようやく小さな万屋を見つけて、洗剤の小さな袋を買う。辺りが暗くなってきたので、急ぎ足で宿に戻る途中、ホテルの手前の暗がりから、「バーバ、カワイ・パリスダイ(姉さん、どこ行くんだい。)」と声をかけられてびっくりした。みると昔住んでいたボンボレットのブルーン村のカムラ・カーンだった。
 きくと、アユーンの人間とブルーン村のバジゲ一族との間で、山羊の放牧地の権利を争っている裁判でペシャワールに来ているが、今日の高等裁判所の判定は敗訴だったとがっくり力を落していた。イスラマバードの最高裁判所に控訴するために、明日新しく弁護士を雇わなければならないが、その弁護士は裁判所で名前を紹介されただけで、会ったこともないという。
 それで、さっき別れたばかりのカリッド・カーン氏に相談しようと思い付く。カムラ・カーンはカリッド・カーン氏の名前を聞いたことがあり、地位の高い弁護士だから弁護料も高いだろうと躊躇していたが、「これも何かの縁。偶然にもめったに会わないカリッド・カーン氏にもあなたにも、同じ場所で同じ時間帯に会ったんだから。」と、とにかく氏の事務所に電話してみる。氏はまだ事務所にいて、すぐ来るように言われる。事務所はホテルから歩いてわずか5分足らずのところにあり、氏は明日カムラ・カーンのファイルを見て、内容に合う弁護士を紹介してくれると言ってくれた。

5月4日(水)
 SPARCペシャワール支部を訪ねるために、サダルを歩いていると、「バーバ。」とまた声がかかった。ひげのおじさんで、見たことがあるが、思い出せない。きっとボンボレット谷のムスルマンだろうと、じっと凝視していると、「随分長い間会わなかったのう。バーバ、この前、ムサシからバーバの写真集を見せてもらったけど、あれはとてもすばらしいから、わしも欲しい。ただし、わしは金をもっていない。」と英語も話す。思い出した。このおじさんは、とライバル・エリア出身の人で、イランでも教育を受け、スフィズムに傾倒。現在のようなイスラム世界を嫌って、8年前にボンボレット谷の私のバーヤの家に居候していたサドゥーのような人だ。ルンブールにもやってきて、私に仏教のことをさかんに訊いていた。しかし、いつも金がなく、あの時も故郷に帰る金がないというので千ルピーあげた記憶がある。このナワッブおじさん、さかんに「ムスリムたちは堕落している。」と嘆き、数日後にカラーシャ谷に行くという。

 ナワッブおじさんと別れて、ムサシも連れて(ムサシの社会勉強のために)SPARCの事務所へ。SPARCはパキスタンの子供の労働、性的虐待、犯罪などの調査をするばかりでなく、全国に60もの支部があるCRC(Commettee for the Child Right)という国連下の機関と手を組んで、状況改善のために政府機関などに働きかけたり、少年刑務所の識字教育をコーディネイトしたり、地味だが、地域にも根ざした活動をしている、パキスタンでは数少ないまじめなNGOのようだ。またパキスタンの子供についての報告をまとめた分厚い本やパンフレット、会報などの印刷物も積極的に出版してアピールしている。
 学生の面影を残す純粋な感じの支部長のアルシャド氏は、ICLCのキラン図書館の話しをすると、もちろんすぐに協力を約束してくれた。氏がマルダン出身だというので、「マルダンにはピール・ゴハールという詩人の知り会いがいる」と私が言うと、「僕の妻はピール・ゴハールと同じピール一族です。マルダンを通る時は僕の家にもぜひ寄って下さい。」と実家の住所を即書いてくれた。

 その後、ペシャワールとタライバル・エリアの境にあるカルカナへ。免税のアフガニスタンのためにカラチから陸路で運ばれた雑多な品物が、ここで降ろされて安く売っているのだ。日本の電化製品・オーディオもたくさん売っていて、日本で買ってわざわざ持ってくるより安い。もちろん偽物も混ざっているが。
 数年前から「子供たちにカラーシャの語り部の話を伝える」活動をやっていて、新しい話はテープにとってもらっている。そのテープをコピーして、オリジナルはキープしておいて、コピーは子供だけでなく村の大人にも聞かせたいと思いつつ、私のダブル・カセットデッキが壊れたままになっている。ペシャワールにいるから、手ごろなものがあったら購入しようと思ったわけだが、ダブル・カセット・デッキとなると、やたらごつくて重いものばかりで、次回にまわす。
 このカルカナで、またまた「アキコ」と声をかけられた。振り向くと、なんとアフガン人のラルコだった。私が始めてボンボレット谷に来た時に泊まっていた宿に、当時布の行商をしていたラルコも友人と二人で泊まっていたのだ。あの時一緒だった友人はあの後アフガン戦争のムジェヒディーンとして殉死した。ラルコは今、カルカナのナッツ屋さんで働いていて、昔のように放浪行商人ではなくて、家族も家もあるときいて、よかったと思う。今日は二人も昔懐かしい人と偶然に会ってしまった。

午後は、英国の家を売り払って、ペシャワールに住居とオフィスを構えて、昨年ミスからミセスになったモーリン女史のところにランチに呼ばれる。モーリン女史はKalasha Environment Protection Society の代表者で、長年カラーシャの支援活動をしているが、カラーシャに関わる外国人を毛嫌いしていて、私も以前「(外国人のくせに)どうしてカラーシャの衣装を着ているのか」と非難されたことがある。彼女はカラーシャのビリール谷に住んでいると言うが、今はペシャワールに住んでる方が多い。ビリール谷には気候のよい5月から11月のうちの数日間滞在するだけで、谷の入口に借りている家やドライバーのチトラールの家などを移動している。英国やイスラマバードでスライド報告会を開いたりして、彼女のNGOへの寄付集めは上手いようで、だからカラーシャ谷にいるより、営業まわりで忙しくなるのだろうが、自家用車の他に、運転手付きのジープを2台持っている。オフィスで働く人もカラーシャ青年一人を入れて6,7人いる。私が代表するNGOと大違いだ。でも中身の方は彼女のNGOがいいかというとそうでもないと思う。
 とにかく、近年ようやくモーリン女史も谷に住む私を無視できなくなり、私たちは話をするようになった。せっかく同じ土俵で仕事をするんなら、協力し合った方がいいに決まっている。
 モーリン女史にいつチトラールに行くか訊いたら、陸路が開かない限り行けないという。「飛行機は?」は訊くと、「飛行機の席は5月Ⅰ5日までいっぱいで、予約の受け付けさえしてくれない」と言う。

5月5日(木)
 朝PIAにムサシと行くと、この後のチトラール行き第2便が飛んだら、明日の便の切符を出すので、午後2時にまた来なさいと言われる。第2便はペシャワールを離陸したが、ラワリ峠に雲と風があったために、またペシャワールに引き返してきているので、明日の第1便は無理だろうと思っていたら、ムサシのPIAの知り合いのお声がかかっていたから、ちゃんと第1便をくれた。

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