カラーシャの谷・晶子便り

パキスタン北西辺境州の谷に住むカラーシャ族と暮らすわだ晶子の現地報告。

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05年7月18日~31日



大使のご訪問
7月18日
 昨年の渋谷大使の水力発電所視察訪問に引き続いて、今年も田中大使と大久保班長ご一行が水力発電改善プロジェクトの視察にいらした。最初はルンブールまでヘリコプターでいらっしゃる予定だったが、アガ・カーンの新型のヘリコプターはルンブール谷に着陸するのは無理だとわかり、イスラマバードからチトラールまではヘリコプターで、チトラールから谷まではジープでいらっしゃることになった。
 谷への道はジープ1台がぎりぎり通れる幅で、もちろんガードもなく、スリル満点。ツーリストにとってはこれもアトラクションの一つになるかもしれないが、この夏は冬の大雪で谷川の水かさが異常に増しているので、途中大使ご一行にもしものことがあったら大変だと、数日前にチトラールの町に出て、大使のご訪問を、谷川の水量も下がり、発電所も完成する秋に延期されるよう大使館に電話で説得したが、秋だと大使の時間が取れないということで、予定通りに来られることになったのだ。
 予定通りであれば、チトラールに午前9時に到着されて、9時半にチトラールからルンブールに向かわれるということなので、AKRSPのVIPジープだったら一般のボロジープと違い、1時間半でつまり午前11時ごろには私たちの村に到着されるとみて、谷の人々にも午後11時に、歓迎ミーティングのために村に集まるように言ってあった。この時期は女性は畑で農作業、男性は山羊の群と一緒に高地にいるか、公共事業や個人の建築仕事に日雇いで働いているので、昼間の村は空っぽに近い。ただ知らせても、あてにならない場合があるので、「出席しないと、電気は引いてあげないよ」とちょっと脅して(?)人を集める。
 村の掃除も済ませ、予定の11時には人々も待機していたが、大使ご一行のジープの音は聞こえてこない。12時なっても1時半になっても大使のジープは到着しない。警備のためのポリスたちもやってこない。集まっていた人たちは、ポリスも来ないということはキャンセルにまちがいないと帰っていった。その日に静江さんとチトラール出なければならない私も、大使ご一行を待つのをあきらめて、カラーシャ服からパキスタン服に着替え、今度はチトラールに行くジープを待つために待機。
 待ちくたびれてだれていた2時過ぎに、ジープの音。もうキャンセルになったと思った大使ご一行がいらしたのだ。何でもヘリコプターの都合でチトラールに着くのが遅くなられたということ。今は工事のために動いていない水力発電所を見学になり、サイフラー議長のゲストハウスの庭でのミーティング、その後山羊のチーズ、タシーリ(クレープ風のカラーシャパン)、ジャーウ(クルミサンドパン)とチャイを召し上がられて、チトラールにお戻りになった。ほんとうは4月から始め6月に終わったばかりの水路の大幅改築工事や、カラーシャの踊りの一部も見ていただきたかったが、踊りの方は葬式があったばかりで谷の人々は喪に服しているのでかなわなかた。時間の関係ですべてがあわただしかったのも残念だった。でも大使にわざわざお越しいただき、少しだったにせよ発電所や村の様子を見ていただいて光栄だった。
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写真:村の女性たちと記念写真:田中大使を中心に右側に大久保班長、左に座っているのが私

岩崎洋氏とばったり
 その後、ジープが見つからなかったので、AKRSPのジープに村串さんと一緒に乗せてもらって、チトラールへ。マウンテン・インのマネージャー・ムニールに明朝の切符の手配を頼んでいたので、翌日の第1便の席が取れていた。マウンテン・インでくつろいでいると、タオルを土方のおじさん風にかぶってベランダをもそっと歩く人間がいる。「あれ、日本人かな?」と思った百分の一秒後に、「あー、岩崎さんだ」と気が付く。ノックがして戸を開けてみると、やっぱり日に焼けた岩崎さんが立っていた。岩崎洋氏はイスラマバードの日パ旅行社でよくお目に掛るおなじみさんで、登山のことに全く詳しくない私は、コックさんをしたり、マルガラ・ヒルの岩登りのコーチをしたり、お酒を飲んだりしているヒッピーもどきの何でも屋の山屋さんと思ってしまうが、登山に関してはかなりの腕で、日本ヒマラヤ協会の幹部でもある。毎年隊を率いてパキスタンの山を登っているけど、チトラール地方にはずいぶん前にティリチミールを登頂したっきり来てないので、こんなところで会うなんてびっくり。
 実は1ヶ月前にチトラールに来て1泊、そのままチトラール地方を北上してワハン回廊へりなどをトレッキングして、フンザ側に出て3日前にイスラマバードに下りてきたけど、突然日パ旅行社からガイドを申し付けられて、お客さまを連れて昨日またチトラールに来て、今日はティリチミールがよく見える何とかという美しい谷(すみません。名前忘れました)に山歩きしに行ってきたという。そのお客さまは10年前にティリチミールで弟さんを亡くされた趙さんという韓国の方で、東京とソウルに事務所を持ち、日本、韓国,中国の人たちが働いているという。仕事柄、海外を飛びまわっているということで、話が豊富でおもしろい。「韓国にも昔あった姿がここにはまだ残っている。チトラールの山村の子供たちの笑顔はほんとうにかわいいよ」と感動していらした。

ICLCから寄付をいただくーそしてペシャワール刑務所訪問
 翌朝7月20日、飛行機は飛び、ペシャワールへ朝のうちに到着。ICLCの田島伸ニ氏とグリーンズ・ホテルで会うことになっているし、静江さんと一緒でもあるので、普通ローズ・ホテルかそれ以下の安宿に泊まる私も、グリーンズに(結局田島さんに払ってもらった)。ペシャワールは暑くて暑くて、いったんエアコンの効いた部屋でくつろぐと、とても外に出る気がしない。午後、田島さんがイスラマバードから到着されたので、今回のペシャワール刑務所見学をセッティングしてくれたナショナル・ブック・ファウンデーションのNWFP支部に一緒についていく。支部長と販売部長は,田島氏がイスラマバードからの移動でお腹を空かしているだろうとの配慮で、肉入りご飯やチャプリカバブなどの「パターン風男の食事」を用意していてくれ、ホテルでバーガーを食べてお腹の空いてない私もその場にいた事情で断り切れず、2度目のランチをごちそうになる。その後、NWFP州の書籍をコントロールし、出版するブック・ファウンデーションの中や印刷所を案内してもらった。
 ホテルに戻り、田島さんと静江さんと夕食を取る。田島さんは7月始めにミャンマーの仕事を終えて、インドに飛び、インドの舞踊の研究で博士号を取られたICLCの黒川妙子さんと一緒に、タミール・ナドゥ州のハリジャンの女性たちと紙すきのワークショップをやってきたそうで、その時に女性たちが作った紙も見せてもらったが、初めて作ったにしてはなかなかの出来で、もう数年も紙すきをやっている私よりうまいんではないかと思ったほどだ。
 デリーでは田島さんは、彼の親しい友人で、インドの巨匠、画家ラマ・チャンドラー氏や、作家バーシャ・ダス女史と過ごしたとのこと。この7月29日から数日間、韓国のナムソンで行われている国際青少年フェスティバルの際に、田島さんの反核のメッセージのこもった物語「亀のガウディ」の本とCDが発表されるそうだが、その美しい挿絵を描いているのがラマ・チャンドラー氏である。この本はすでに30近い言語で出版されているが、日本でもっと話題にされていい本だ。グラフィック・ムービーのCDがまたすばらしい。
 そして田島さんは、私のところの多目的ホール&仕事場に、図書コーナーを設けるためと、紙すきの道具設備のためにと1792ドル(20万円)を寄付してくださった。このお金はウルドゥー語の権威でいらっしゃった故鈴木教授が、パキスタンのキラン図書館のためにと寄付された貴重なお金の一部である。いかに村の子供たちに合った良い図書コーナーを設けるか、今いろいろ考慮中だ。こういった目的で、日々しぼんでいく脳みそを使うのは楽しいことである。故鈴木教授、教授の意思を受け継いでくださっている鈴木夫人、田島さん、そしてICLCのみなさまに感謝します。ありがとうございました。

 翌日7月20日朝、まず田島さんと、子供の権利のために働くNGO、SPARCの事務所に行き、その後にペシャワールの青少年刑務所を訪問。刑務所の責任者は思ったより若い方で、図書館設立にあたって田島さんが話しをすると、「本がためになるからといって、いくらたくさん教科書みたいな堅い本を置いても、心のダメージを受けている青少年受刑者たちは読む気がしないだろう。興味をそそり、視覚的なもので、楽しくなり、心を癒されるような本を置くべきだ」と開口一言。今まで、たくさんの刑務所を訪れてきたが、こんなに頭の柔らかい責任者と会いったのは初めてだと、田島さんも喜びと安堵の表情。その後、刑務所見学となった。
 刑務所は昔のインド風の煉瓦と土壁の建物で、塀の中の通路や庭はきれいに掃かれて(人手があるからだろう)とても清潔だった。しかし青少年刑務所に行くために通った大人の受刑者部屋の中は、ちらっとしか見なかったが、暗いところに鍋や台所用品が雑然と置かれた中に、たくさんの受刑者がごろごろいるという感じで、異臭が臭ってくるような気さえした。青少年刑務所の方は、三つの天井の高い建物の両側に敷布団がずらりと敷いてあって、その上に青少年受刑者たち(あるいは裁判中)が座っていた。彼らは特別のユニフォームを着ているわけでもなく、その辺で見かける普通の若い人たちに見えた。部屋には所持品も何も見当たらず、すっきりしていた。トイレもきれいだった。
 田島さんが数人の青少年に質問したが、読み書きができる者が多かったのは意外だった。中に11歳の少年がいて、何の罪かときくと、窃盗だという。「何を盗んだの」と私がきいたら、「フルーツ屋でバナナとアーモンドを盗んだ」と言う。親たちは彼が刑務所にいることも知らないという。後で刑務所長さんに、どうして家族に知らせないのかきいたら、「彼らの家族は住所があってないようなもの。それに知らせても会いにくることもないから」ということ。ほんとうだろうか?刑務所の中は世の中の縮図みたいなもので、それだけにあらゆる問題を抱えているとは思うが、11歳の少年をバナナを盗んだ罪で刑務所に入れて、家族にも知らせない刑務所側の方こそが一番の問題ではないかと思うのだが。
 刑務所見学の後、再び責任者のオフィスで会談。キラン図書館の建物は刑務所側とICLCとで折半で建てて、図書や視覚教材、机、椅子、などの経費はICLCが出資する。またSPARCなどの地元NGOと協力して識字教室や教師のトレーニングも行うことが決まった。そのためにまず、委員会を立ち上げなければならない。刑務所側だけでなく、ナショナル・ブック・ファウンデーション、SPARC,そしてファウジアや私も参加するよう田島さんから頼まれる。
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写真:刑務所内の識字教室にて。左から田島氏、刑務所長、教師。

ファウジアの広島行き
 田島さんの車に静江さんと私も乗せていただいてペシャワールからイスラマバードに。多目的ホール&仕事場建設で多いに世話をかけた静江さんを見送るためもあったが、もう一つはこのホームページの便りに時々登場する友人のファウジアが、広島の原爆60周年記念日に「パキスタンの子供たちの絵の展覧会」を開くことになり、その準備の手伝いをするためでもあった。
 この展覧会をファウジアが思いついたのは6月で、それからの話にもかかわらず、NGOのANT(Asian Network Trust, Hiroshima)から受け入れてもらえたが、前々からの計画だったら予算もきっちり組んでもらえただろうが、切羽詰ってのことだったので、全部の経費を出してもらえないという。広島での滞在はANT側で面倒を見てもらえるけれど、成田に到着してから東京の宿代、広島までの旅費などは自費になるという。しかもファウジアは二人の息子(10歳と8歳)も連れていくというから、物価の高い日本で、大変なんてもんじゃない。だいたい成田から東京のホテルに行くのだって大変だ。
 ありがたいことに、イスラマバードで帰国のために待機していた静江さんが話をきいて、ファウジアたちが成田に到着する時に迎えに行くと申し出た。東京滞在のためのホテルや交通手段はICLCの黒川さんや美穂子寄付金の丸山純&令子夫妻がインターネットであちこち検索したのを、英語の説明と共に逐次ファウジアに情報を送ってくれて、きわめてリーズナブルの宿が見つかった。画家の田島和子さん、日本パキスタン協会の高安さんにもギャラリー案内や新幹線までの案内を頼む。ファウジアたちは28日にビザも取れ、7月31日夜に成田に出発の予定。
 ファウジアがこの展覧会を開く目的は以下の通り。世界が武器と力を持った方に牛耳られて、どんどん危険になっていく現在、将来を担う子供たちに、何が残せるか。宗教や民族が違っていてもお互いに敬意をもって理解し合い、平和な環境を残すことが大人の義務。「テロ」も「正義のための戦争」も無実な人々を殺す同じ残忍な行為。今やテロの生産国として有名になったパキスタンの普通の子供たち、ムスリム、クリスチャン、カラーシャ、アフガン難民、金持の家の子供もそうでない子供も、普通に生きていて、平和を願っている、というメッセージを広島から発したい。
 この展覧会は、広島のインターナショナル・ハウス(国際ハウス?)で開かれます。多分8月5日から9日まで開催だと思います。広島の近くに住んでいる人はぜひ見に行ってください。そしてファウジアの平和を願う話もきいてください。くわしい情報は広島市のANT(Asian Network Trust Hiroshima)にお尋ねください。

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7月2日~14日


 今年はこの冬の大雪のために、河川の水量が異常に多く、岩を砕いて流れる水流を見ているだけで恐ろしくなるほどだ。私の部屋は山肌にへばりついている村の上部の方にあって、川からは離れているが、川水がごろごろごちんと岩々をころがす音も例年になく大きく、部屋まで響いてくる。これで雨が降れば、鉄砲水が発生して、多くの土砂崩れが起こる可能性があり、川縁の家屋は要注意である。河川の水量が増えたことと関係があるのか、今年の夏は蚊が多い。バラングル村にはノミこそいるものの、蚊はほとんどいなかったのに、鋭い針をもち刺されたらかゆみが数日残る真っ黒い蚊が現れている。

 床と壁のセメント作業完成!
 ジャムシェールを、アユーンの町やオルゴッチ村に数回使いに出し、セメント職人を当たるが、来るといった職人たちなかなかやって来ない。7月2日、たまたまルンブール谷の国境警備隊の詰め所の建物のために待機していたセメント職人を、ジャムシェールが連れてきて、翌日から仕事部屋のセメント作業を始めることに決める。そしたら同じ日の数時間後に、約束していたオルゴッチの職人がやって来る。彼の方が本命だというので、すべてのセメント作業を2万ルピーで請け負ってもらうことになる。先ほどの職人はどうなるのかとジャムシェールにきくと、そっちは詰め所の仕事があるし、断れば問題ないという。
 翌日6時半頃に仕事部屋に行くと、もう職人は仕事を始めていた。やってる、やってると思って見ていたら、しばらくしてもう一人がやって来た。よく見ると、あれっ。後で来た方が本命ではないか。つまり断ったはずの詰め所のセメント職人がせっせと作業を始めていたわけだ。ジャムシェールに「あんた断りに行くって言ったじゃない」と言うと、「行ったけど、いなかった」といい加減なことを言う。詰め所の職人は自分が先に請け負ったと言い出し、プライドの高いもう一人の職人も引き下がらない。両天秤にかけたまま、きちんとした対処をせず逃げ腰のジャムシェールを呼んで、「こうなったのもあんたの責任だから、解決しなさい」と言ったら、彼は二人の職人の前で、「このセメント作業は自分が請け負う。職人一人につき1日の賃金が普通300ルピーのところを350ルピー払い、二人に仕事をしてもらう。」と言い渡す。職人が「じゃあ、昨日、この日本人(私のこと)の前で、俺に請負いを出したのはどうなるのか。」と本命職人が文句を言うと、「ボンボレットに行っている、俺の伯母さんで、この日本人嫁さんのボス(静江さんのこと)が、昨夜使いをよこして、請負いは俺自身でやれと言ったんで、仕方ないんだ。」と、うそも方便なのか何なのか知らないけれど、上手く丸め包める。その日から職人二人でセメント作業を始めて、11日後の7月13日、ボンボレット谷からバウック湖トレッキングに行ってきた静江さんが、バラングル村に戻ってきた日に、セメント作業はトイレ以外は終了した。多目的ホール、仕事部屋、倉庫の床と壁だから、けっこうな面積になり、この日数でやり終えたのは上出来と言えるかもしれない。仕上がりもきれいだ。しかし、このセメント作業だけで、当初の予算の倍以上かかってしまった。
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二人のお葬式
 セメント作業開始5日目の昼前、下流にあるバラデッシュの男性が亡くなったとの知らせが入る。ジャマットも所属するドレメッセ一族の60代後半?のおじさんで、私がいつも世話になっているヤシールのお母さんの叔父さんである。前日の夕方まで畑の仕事をしていてピンピンしていたのに、夜になって急にお腹が痛みだし、アユーンの病院で亡くなったという。お腹が張れていたので、急性盲腸炎だったかも知れない。突然の死で、彼の妻、姉弟、娘、そして大勢の親戚一同のショックは相当なものだった。
 7月はパキスタン人ツーリストが多い時期で、大勢のカラーシャが痛み悲しむ葬式を、じろじろと物珍しそうに見るツーリストたちが非常に不愉快だ。毎年この月に休暇でやってくるデンマーク人のビルギッタは、ここ数年デジタル・ビデオ撮影に凝っているが、ここぞとばかりに撮影している彼女の姿も何だかわずらわしい。それでも彼女は、撮影したものを編集してコピーを私の多目的ホール用にもくれるというし、記録として意味のあることだが、実際に目の前で知ってる人が死んで横たわっていて、みんなが悲しむ姿を撮影する気にはなかなかならないものだ。
 この葬式の二日目に、うちの村のおじいちゃんが亡くなった。カラーシャの人の年齢は不明だが、みんなが言うには100歳ぐらいでルンブール谷では長寿の一人だった。山羊小屋で過ごすのが好きで、去年まではほとんど上流にある自分の山羊小屋で寝泊りしていた。しかし冬の大雪の時に、根上で滑って大腿骨を折ってからは全くの寝たきりになってしまい、折れた足は萎えてしまっていた。それでも7ヶ月の間、あの歳で生き延びてきたのだから大往生だといえるだろう。
 同じドレメッセ一族だから、先に亡くなったおじさんと一緒に並べて葬式をしたらいいという話もあったが、結局別にやるということで、一日遺体は家の中に鍵をかけて置かれた。
 三日目、先の遺体が埋葬され、弔い客や谷の人すべてに山羊の肉、カイー(肉汁に小麦粉を入れてとろみをつけたもの)、精錬バター、小麦タシーリが配られてから、おじいちゃんの遺体は家から出されて、新たな葬式が同じ場所で同じような規模で始まった。ボンボレットの弔い客の中には最初の葬式が終わって一度ボンボレットに戻り、夕方にまたやって来た
人もいた。多目的ホール&仕事部屋の作業をしていたカラーシャたちは、即作業を止めて、5日間徹夜で行われた葬式の方に関わり、ムスリムのセメント職人二人が監視のない状況で気楽に仕事をしていたもよう。

小さい文字

6月11日~30日


 3年前に約束していた、多目的ホール&仕事場の窓枠や戸に使う最後の丸太数本がなかなか来ない。こうなったら静江さんが上流の沢まで直接買い付けに行くというので、私も着いて行く。前日の雨で沢の水がいっきに増えてジープが通るのも難儀する。石を水の中に投げ入れてジープの道を作ってどうにか木が置いてある地点まで行く。直径3、40センチ、長さ4メートル程の丸太8本で値切って4千ルピー(8千円)。安いと言えば安いが、これに人夫代、ジープ代、板にするためのノコギリ人夫代がかかる。機械で切る場合は機械代とアユーンまでの運送代が4千ルピー以上かかるので、地元の人からすれば、けっこうな出費だ。しかし、山から木を切り出し降ろしてくる作業は、頼るのは自分の素手の力だけで、これぞ男の仕事という感じだ。重い丸太をボロジープに積む時もテコ用の棒を使うだけなので、こちらは見ているだけで、いつ丸太がごろんと人の足の上に落ちてくるんではないかとハラハラのし通しだ。

ジェシタック・ハーン(神殿)の建て直し
 上流の沢から歩いて戻ったので、疲れて部屋で休憩しようと思っているところへ、イギリスの新聞「ガーディアン」の記者が話しをききたいと待っていた。私一人では何だから、カラーシャの元議長のサイフラーさんも一緒にと彼のところへ連れていく。カラーシャのムスリムへの改宗のこと、ツーリズムのこと、援助のことなどを主にサイフラーさんが話す。カラーシャの誇りを失わないで欲しいと願う私は、「よかれと思ってやっている援助がカラーシャを弱くしている要因になっている。昔は貧しいながらも自分たちの手で建てていたジェシタク神殿などの宗教的な建物も、今では援助金で建てるようになった。援助金がくるまでは、たいした修理でなくても自ずから行おうとしないようになった。」と若い記者に嘆いた。

 おりしもその翌日、モーリン女史がやってきて、バラングル村のジェシタック神殿の建て直しプロジェクトを持ってきたと言う。フィンランド政府の援助で、解体と土台の作業は地元側でやり、完成祝いの祭礼などを含めて建築予算は45万取ったと言う。すると村の代表者たちは、「ハンサリ(神殿の完成祝い)はコストに直すと2-30万ルピーは下らないが、それは地元側の責任でやる。しかしカラーシャの人口も増えたので、建物を大きくする必要があるので、そちらは建物の費用を援助してほしい。」と要請した。サイフラー議長は「神殿の土地は私の土地で、場所もいいことから、今や土地代も高くなっている。しかし神殿はカラーシャの冠婚葬祭には最も重要な場所の一つなので、土地は無料で提供する。」と宣言。モーリン女史も納得し、6日後に第1回目の資金10万ルピーを責任者たちに渡した。翌日、神殿はさっそく解体された。建てて34年経つそうだが、天井の梁の多くが腐っていた。
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           写真:解体中のバラングル村のジェシタク神殿

 多目的ホール&仕事場建設は、大工さんがコツコツ作っていく戸や窓わく、戸棚の扉の仕事の他に、残された大きな作業は、床と壁のセメント塗だけだ。屋根が終わった後は、セメント塗りの準備のために砂や砂利を、アユーンや上流からジープで運ぶ仕事をジャムシェールに頼む。砂は1回につき30ルピー払うだけでただのようなものだが、ジープ代が高い。その砂も今年の雪解け水のかさが増したために、アユーンの河原にはあまりなく難儀したようだ。ジープで砂をアユーンから11回、上流から砂利を5回、近くの河原から人夫が10日以上かけて集めて運んだものも合わせて、ようやく足りるだろうということ。
 材料が揃ってもセメント職人がいない。最初は近くで店屋をやっているムスリム二人が請け負ってやると承諾したが、翌日になって、店を閉めてまでセメント塗りをやれないと断ってきた。それではアユーンからセメント職人を連れてこようと、ジャムシェールを数回アユーンやオルゴッチ村に送るが、ちょうど今の時期は職人の畑が、麦の収穫とその後の耕作作業に重なったりして、すぐにはつかまらない。

ベトナムからのバックパッカー 
 静江さんと通子さんが宿泊しているサイフラー・ゲストハウスに一人旅のベトナム人バックパッカーがやってきた。以前私自身がバックパッカーでアジアをうろついていたし、ルンブール谷に落ち着いてからもたくさんのツーリストを見てきたが、ベトナム人のバックパッカーは初めて会った。ベトナムの国が開放されて、海外からの旅行者がベトナムに行くようになった。ベトナムは以前フランスの植民地だったので、食べ物もフランス風とベトナム味がうまく溶け合い洗練されていておいしいし、街並みもしかりなどという話は耳にしていたが、ベトナム人そのものがリュックを背負って旅に出るようになったとは正直驚いた。時代が進んでいる証拠ではあるが、なかなか好ましい事実だと思う。
 サイゴンサウス市をコントロールしている会社で働いていたという建築士のドングさんは、まだベトナムに全く知らされていないイスラム世界を自分の目で見てみたいと会社を辞めて出てきたという。ハノイから中国の昆明に鉄道で行き、中国を横断してパキスタンに入った。この後アフガニスタンを経てイランに入り、再びパキスタンに戻り、中国経由でベトナムに戻るという。英語もうまくてインテリだが、非常に物腰が柔らかくて、存在そのものが気にならない、仙人のような人だ。建築士というので、多目的ホール&仕事場の現場を見てもらった。彼もやはり、「地元に伝統的に受け継がれている建築方法が最も望ましい。」という。「特に石の壁はとても美しい。しかし石積みの間に横木として置かれている角材は見た目には美しいが、必要性はない。土台と壁の上に置くだけで十分なはずだ。」との意見はなかなか興味深い。二階を造る時の参考にしよう。床のセメント貼りに関しても、「床はセメントを4インチ張るというが、それではセメントを使い過ぎる。今用意してある石を下に敷き、間に小石を撒いて、取っ手を2本つけた重い地ならし道具で、上からならしなさい。その上にセメントを張れば3インチで済む。」と、技師らしい丁寧できれいな図を描いて、静江さんや私、ジャムシェールたちに説明してくれた。
 ドングさんのこういう形の貢献は、多いに歓迎するところである。こういう形で他の旅行者やいろんな人たちが、多目的ホール&仕事場に有形無形の形でどんどん関わっていけばいいと思っている。
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       写真:ドングさんの意見を考慮して石を敷き詰める。

6月30日
水力発電改善プロジェクトの水路のセメント工事が始まってからは、水路の水が止められて電気なしの生活。11年前に日本大使館の援助でミニ発電所が出来るまでは、ランプの生活だったから、ギャースカわめくほどのことでもないけど、困るのはパソコン作業ができないことだ。毎晩パソコンをやるわけではないが、こうやってホームページを持つ身になったからには、月に2回ぐらいは便りの更新もしたい。1回遅らせると、ニュースが溜まってしまって、収拾がつかなくなり、後で自分が苦労する。
 ということで、電気を求めてチトラールに二日前にやってきたのだが、何とチトラールはその日停電。夜遅く一応電気がきたので、翌朝早めにメールチェック。返事を打つ暇もなく、水力発電プロジェクトの件でAKRSPの担当技師のオフィスへ。さらにラホールから水管が届いているというので、技師、サイフラーと一緒に確認のために集積所に行く。水管110フィート分12本確かに届いていた。その後、各家庭に取り付けるメーターを見に行く。部屋に戻ったら、再び停電になっており、パソコン作業はお預け。
 午後3時頃ようやく電気がくる。ホテルの隣の部屋にボンボレットのカラーシャの連中が来ていて、「バーバ、こっちにきておしゃべりしようよ。」と言う。「おしゃべりするためにチトラールに来たんじゃないよ。電気があるうちにコンピューターで仕事しないと。」と断る。カラーシャの連中の中には年頃の娘も一人混じっていて、病気の様子でもないし、一体何してるんだろうとちょっと気になる。
 後で教えてくれたのは、カラーシャの娘はチトラールのガールズ・カレッジで勉強しているが、娘が小さい時に許婚になった相手が、「俺の妻には教育は必要ない。早く俺の家に来て畑の仕事でもしてもらいたい。」と圧力をかけるので、では婚姻の話をご破算にしましょうと、相手から受け取った婚姻の贈り物をそのまま返した。そしたら、贈り物は倍返しにしてもらいたいと文句をつけ、裁判にかけられたということだ。カラーシャの伝統習慣では、もし娘が夫を捨てて別な男のもとへ走れば、その男が贈り物の倍返しをする規定になっているが、実家に戻っただけでは倍返しにはならないはずだ。私は娘の方を支持したいが、これもカラーシャ社会の中でも時代が進んだことを実感させる出来事ではある。

 チトラールに来て三日目。今朝も停電で、昼ごろになって電気はきたものの、インターネットの調子悪し。何でもカラチ沖の海底でどっかの潜水艦がインターネットのラインにぶつかり駄目にしたという。インターネットのオンライン、一時間がんばったが、アウトルックからの送信は果たせず。メール送って下さった方々、こういう状況ですので、今回送信出来ない場合は申し訳ありませんが、次回までお待ちください。次回は7月10日過ぎになると思います。今回のチトラール滞在は発電プロジェクトの件もあったとはいえ、3泊するはめになってしまった。(終)

さい文字
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