カラーシャの谷・晶子便り

パキスタン北西辺境州の谷に住むカラーシャ族と暮らすわだ晶子の現地報告。

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一時帰国の途に着いた。


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  写真:多目的ホールにキラン図書室を準備中:2月5日撮影


 2月6日、発電改善プロジェクトの最終報告の件と一時帰国のためにルンブール谷を出てチトラールの町へ。ラワリ峠が閉まっている今の時期、パキスタン人は陸路でもアフガニスタン経由でペシャワールに行けるが、パキスタン人に帰化してるわけではない私はアフガニスタンには入れないので、チトラールを出るには飛行機で飛ぶしかない。すぐに飛行機の予約にPIAのオフィスに行くが、チケット売り場にはパターン人の新しい担当者が座っていて、この人がジョークの一つもわからぬような堅物で、国際便に乗らねばならないので、なるべく早くペシャワールに行きたいと言っても、「個人的な理由は受け付けるわけにはいかない。このところキャンセル続きで席がないので、8日後の14日になる。」とはねつけられた。8日間も用事もないチトラールにいるわけにはいかない。セールス・マネージャーのところにいって、直訴したら2日後の切符を買うことができた。

2月8日~9日
 11時半の第二便のフライト、けっこうな風が吹いていたが、無事に飛行機は飛び、お昼すぎにはペシャワールへ。すぐにプロジェクトの会計監査書類の件で公認会計事務所の所長さんの携帯電話に電話するが、あいにく今日と明日はパキスタンの休日で事務所はクローズだという。仕方がない、明後日に事務所に行くことにする。外の店もすべて閉店なので、宿の部屋で、久しぶりのテレビを見ながら過ごす。パキスタンのホテルのテレビはケーブルなので、BBCやCNNなどの報道チャンネル、ナショナル・ジオグラフィック、ディスカバリーなどの自然科学番組、音楽番組、もちろんたくさんのインド映画など選択に困るほどのチャンネルが入り、暇つぶしにはなる。
2月10日~11日
 チトラールから陸路で来たサイフラーと、朝一で公認会計事務所へ。書類はチトラールで受けとっていたが、例えばジェネレーターの出費の個所がたったの8千ルピーとなっていたり、プロジェクトの期日がまちがっていたりなど、数ヶ所のおかしい点があったので、訂正してもらうために事務所を訪ねたわけだ。ジェネレーターの件は本体の出費が発電所の建築費に入っていて、8千ルピーの小さな部品だけが記載されていたことがわかる。そういった個所を訂正してもらい、書類にサインもしてもらう。コンピューターの専門ソフトがあるから、私がやったら1日かかる作業も2時間もかからずやってくれた。
 サダルのバーガー屋さんでランチを取って宿に戻るとすぐに、ムサシが訪ねてきた。昨年ペシャワールの名門エドワード・カレッジを卒業し、そのままペシャワール大学に入学したいというので、入学金を私が出してやったのだが、期日に間に合わなくて入学できず(成績が十分でなかったからとか、コネがなかったからという人もあるが)、コンピューターのコースで勉強したりしている。この夏にギリシャで学ぶための奨学金制度に申請するので、私に推薦書を書いてもらいたいというのだ。ムサシが私のNGOでボランティアをしたわけもないし、私のNGO自体権威のあるものでないから、いくら「ムサシはよい青年です」と書いてもあんまり役に立たないだろうと正直に言って断る。
 ムサシが帰ってから改めて会計事務所の書類に目を通すと、ありゃりゃ、私もいったん確認したし、所長さんも確認していたはずの書類の一枚が訂正前のままになっていた。時計をみると、5時。事務所は4時半までだ。また翌日に仕事が持ち越されてしまう。
 翌日、土曜日だからもしかして事務所は休みで、月曜までペシャワールに滞在になるかと思ったが、所長さんに連絡すると事務所は休みでなくほっとする。しかし用事が終わって事務所を出たらすでに午後2時で宿のチェックアウトの時間も過ぎていたので、もう一泊ペシャワールに泊まることになる。夕方、カラーシャ谷に住み着く前からの知り合いである、弁護士のカリッド・カーン氏を訪ねる。彼は日本にたくさんの友人を持ち、何度か日本にも遊びに行っている日本好き、マルダン出身のパターン人。最近、日本の友人たちからの連絡が途絶えていて、さみしい気持と心配が織り交ざっているようだ。しかし、歳をとって外に出かける気持がなくなったとぼやくわりには、今年の正月から3週間、香港と中国で過ごしている。夕食はティカ(肉の串焼き)をごちそうになる。半キロのティカがテーブルに届いてから、カーン氏は「自分は神経痛で、肉はドクターストップがかかっているから食べない。これは全部あなたが食べて下さいね」と言うではないか。「えー、一人でこんなに食べれるはずがないでしょ。」と言いながらも、炭で焼いた肉がとてもおいしくて(多分最近食べた肉の中で一番おいしかったと思う)、残すのはもったいないし、お持ち帰りにするには少ないしで、結局全部たいらげてしまった。
 ペシャワールではペシャワール会の藤田さん、坂尾さんたちに会いたいと思って、何度も電話を試みたがつながらなかった。今回はあきらめて、日本から戻ってきた時に会いに行こうと思う。
2月13~14日
 13日イスラマバードへ到着。プロジェクトの最終的清算を宿でパソコンに打ち、インターネット屋でプリントアウトしてもらう。いつものことだが、私のパソコンとよそのコンピューターはぴったり合わず、フォーマットがずれまくって、修正に時間がかかったが、一応できた。その夜、夕食の後、お腹がパンパンになって苦しかったが、寝てから、下腹に熱い爆弾が入っているような刺し込みが起こり、痛くて一睡もできないまま、朝になる。ペシャワールの500gの串焼き肉が消化不良を起こしたのかと察する。
 13日、お腹の痛みは半分ほどに治まったが、まだ痛みはある。しかし、そのうちよくなることを期待して、大使館に電話してアポを取り、プロジェクトの工事責任者のサイフラー議長と一緒に最終報告書を提出。取りあえず、肩の荷が下りて嬉しい。
 その後、ラワルピンディーのバンダラー氏のオフィスへ。少数派の代表国会議員であるバンダラ氏に、谷の報告、特にエレクション・ビビの公金不正使用の件を、大統領にきちんと調査してもらうようお願いする。なにしろエレクション・ビビは、ジェシタク神殿建設のために1000万ルピーをムシャラフ大統領から受けとって、建設には多く見積って4割支払い、あとの600万ルピーを私物化して、今はイスラマバードの屋敷に家族も引き連れて住んでいる有様だ。
 ファウジアの家に行く。ファウジアは昨年の8月、広島原爆60周年記念で、パキスタンの子供たちが描いた平和の絵の展覧会を広島の留学生会館で開いている。彼女のインタビューは中国新聞に大きく掲載されている。二人の息子たちも連れての日本行きだったが、アメリカにも行ったことのある息子たちは、「日本はすばらしい。アメリカよりだんぜんおもしろい。国中がディズニーランドのようだった。」と日本を誉める。人々もとても親切で、食べ物もおいしい、すべてがオーガナイズされているのには驚いたというが、そりゃあ、行き当たりばったり、オーガナイズという言葉が存在しないパキスタンから日本に行ったら、まあそう感じるのは当たり前だろうな。とにかく日本を気に入ってもらえて、悪い気はしない。


以下、前回更新の分も付けておきます。

2006年 明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。

 1年がこうも早く過ぎ去って行くとは信じられない気持です。
 私の2005年を振り返ってみると、東京と福岡での写真展、発電改善プロジェクト、多目的&仕事部屋建設など大きな仕事が集中した年だったわけで、追われっぱなしの日々がめまぐるしく過ぎていった感があります。
 本年は多目的&仕事部屋の内装を完成させて、図書コーナー(キラン・ライブラリー)、視覚学習コーナー、手すき紙作りの技術向上、ハンディ・クラフトの開発など、具体的な活動に挑みたいと思っています。
 ただ、竜宮城の浦島さんじゃないけれど、長年歳を忘れてカラーシャの谷で暮らしていて、ふと気が付くと(というか、否応なく気が付かざるを得ない)、けっこうな歳になっていて、体力が急激に落ちているんですね。特に股関節の痛みは、多目的&仕事部屋の作業(ペンキ塗りや棚作り)をしたのもあってか、秋から相当ひどくなり、本年はまず、この自分の股関節の問題をどうにかしなければと思っています。医者嫌いの私ですが、今回の一時帰国の際に、専門医にあたってみるつもりです。
 帰国中は、3月いっぱい東京ではいつものように弟家族のところに居候、佐賀の両親のところには4月はじめに予定しています。

 便りの方は、最近はまとめる時間がないので、ほとんど日記から拝借しています。私の生活・活動、村の様子を少しでも汲みとっていただければと思いますが、時間のない方はもちろんパスして下さい。

***(1月18日)上記の新年の言葉を打ったのが12月末。そのすぐ後にチトラール全域が寒波に覆われ雪になり、ルンブール谷はもちろん、普段雪が積もらないチトラールにも雪が積もり、交通も谷からアユーンまでは徒歩という状態。私は股関節の問題だけでなく、チョウモスの最中にかかった風邪がこじれ、どうも副鼻腔炎らしき病状になり、始めは抗生物質で治ると軽くみていたのですが、手持ちの抗生物質を全部飲み終えても、今もまだ治せずにいます。
 このままだと春まで半病人のまま谷に埋もれていそうな気にもなってきます。発電改善プロジェクトの最終報告書の件もありますし、この便りブログも打つばかりで、チトラールに行ってインターネットにつないで更新しなければ何にもなりませんし、チトラールのお医者さんにちゃんとした薬を指示してもらった方がいいだろうと、こうして雪道を走るジープの運転手さんに命を預けて、チトラールに出てきました。チトラールの町は寒さのために水道の水も凍結して出ない状態なので、今回はチトラールには泊まらずに谷に戻ります。したがって、ブログのコメントやEメールやを下さった方には今回はお返事できませんが、ご了承くださいませ。
***
 
05年11月30日
 冬になり、冷凍庫のようなチトラールの安宿の部屋では手がかじんで、コンピューター作業が不可能なので、奮発してマウンテン・インに宿を取り、日本製の灯油ストーブで暖をとりながら、ブログの更新のために原稿打ちと写真選びを前日にすませていたので、本日のブログ更新作業は楽勝だと思っていたのに、インターネットがなかなかつながらず、ようやくつながったら更新作業中にまた切れて、それからは1時間の試みにもかかわらず、どうしてもつながらない。数枚入れる予定の写真が1枚入ったかどうかという中途半端な状態だったけど、ブログ更新のためにマウンテンインにもう一泊するわけにはいかない。電線ほか発電プロジェクトの荷物を積んだジープでアジズ技師、サイフラーたちとルンブールへ戻る。

12月1日
 雪が降ってからは空気が冷たくなり、今朝は室内で4度。多目的ホールと仕事部屋の、きちんと閉まらない窓を、刃の切れないカンナで削って修理する作業。材木の乾燥ぐあいで、後になって閉まらない窓が半分ぐらいある。けっきょくちゃんとした道具がないと修理もできないと途中であきらめざるを得なかったが、この作業で日が陰ってしまい午後1時。ランチの後、語り部コシナワズと録音係りのヤシールに11月分の給料を払いに行く。昨日来たアジズ技師、今日と翌日は前に取り付けた電柱の電線を再び引っ張る作業。すっかり冷えてサイフラーの宿に戻ってくる。

12月2日
 近所のエリカの父さんに、私の部屋にあるストーブを新しい仕事部屋に運んでもらい、火を焚いてみる。パキスタン製ラーメンを作るのに、ベランダのボロストーブの10倍もの薪を食う。仕事部屋の掃き掃除をして、ラーメンを食べたら日が暮れる。あさってのハン・サリックのためにまたミーティングがある。

12月3日
 ハン・サリックのために、バラングル村のどの家も(あまりにも貧しい家は免除)、朝から10キロの受け持ちの小麦粉でタシーリ焼き。夕方までかかる。アジズ技師と作業人たちは発電所のタービンにベルトを取り付ける作業(位置が少しずれていて、それを直すのに時間がかかる。)の後、タンクをチェックして、発電所の配電作業。

12月4日
 ハン・サリック。カラーシャの行事の多くは午後遅くから始まるのだが、ハン・サリックは午前10時頃、バラングル村の女性たち(ジャミーリ)がクルミパンを持って、歌いながら神殿へ向かうことから始まる。神殿についたら、女性たちは同じ一族の男たちやお客たちに祝いの紐(シュモン、ショケック)を首にかけていく。長老たちの首には数十本のカラフルな紐でいっぱいになる。神殿のまん中に焚かれた火のまわりで、女性は手拍子に合わせて歌い踊り出す。
 こういうパターンはチョウモスでの行事やサリアークなどの個人の祭りでよく見る光景だが、ハン・サリックならでのイベントは、ドゥール・ビィーックである。新しい神殿によその村人を入れないように通せんぼするゲームだ。第一回目のゲームは午後1時頃、下流の村人の集団が歌いながらやってきた時に行われた。バラングル村の若者たちは入口と屋根の灯り取り兼煙突からよそ者が入れないように、人間バリケードを組む。よそ者たちは体当たりで神殿の中に入ろうとする。衝突、叫び、土埃、声援、単純でワイルドなゲームで数分で終了するのだが、若者たちは一生懸命になる。
 この時に、先頭にいた下流の村の長老はころんで服がどろんこになったとカンカン。その娘も「こんな危ない行事は中止すべきだ。」と言っていたが、日本の祭りでも、死者がでるほど危険な行事もあることだし、ころんだり、服が破れるくらいはどうってことない。体力に自信のない者は衝突の中に入らなければいいのだ。
 第2回目のドゥール・ビィーックは午後3時すぎ、ボンボレットの連中が到着した時に行われた。遊びや冗談が好きなボンボレットの男たちに対して、扉を守る側も熱くなり、前回以上の激突が繰り広げられた。同じ時に屋根の上では子牛が犠牲にされて、灯り取りから神殿の中に放り投げられる。続いて10メートル以上もある白い布が灯り取りから落とされると、客側の長老が歌を歌い、その長老の頭に白い布が巻かれていく。その後、4体のジェシタック(バラングル村には4つの氏族がある)が並ぶ前で、2頭の山羊を犠牲にして、血を捧げる儀礼が行われる。
  ハン・サリックは夜を徹して歌と踊りが繰り広げられるわけだが、夜になって、このハン・サリックのために対岸の小さな発電所から引いた神殿の電気が消えて、真っ暗になり、一時は歌踊りもストップする。昼間に、発電所の責任者が行事の進め方について別な村人と口論になり、怒って退散する出来事があったが、その男が腹いせに電気の操作を切ったのだ。サイフラーの家の壊れかけたガス・ボンベを借りて、行事は続行され、数時間後に、誰かが説得したのか、ようやく電気がついたが、家庭の守り神であるジェシタックをまつる重要な神殿の新築祝いの行事に、こんな嫌がらせをするなど、まったくカラーシャにあるまじきとんでもない行動であきれてしまう。
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 写真:ドゥール・ビィーックの前。天井の明かり取りからもよそ者を入れないように、娘たちは枝を持って歌う。

12月5日
 ジャマットの部屋の前のベランダでは、ジャマット、ジェムシェールなど4~5人の村人から提供されたハンサリックに出すワインが集められている。今年はぶどうの収穫が極端に少なくて、ほとんどが外から買ったぶどうで作られ、ワインは高いものになっている。
 下の家で暖をとっていると、ボンボレットのヌシャヒディンが顔を出す。ヌシャヒディンがねだって、上で集められているワインを少しもらって、ストーブのそばで話をする。彼はチョウモスが終わったら、ムサシの母さん(彼の奥さん)他4~5人でインドに行くという。なんでも知り合いのインドのジャーナリストが招待しているのだそうだ。カラーシャの宗教は古いヒンドゥー教からきているのではと思われるので、カラーシャはイスラム教国のパキスタンよりもインドの方が住みやすいのではないかと思うが、でもインドだと、カラーシャは主流のヒンドゥー教に呑まれて、カラーシャそのものの伝統宗教はなくなってしまうかもしれないという危惧はあるが。

12月7日
 アジズ技師、多目的ホールと仕事部屋の電気の配線にきてくれる。前日と翌日にも作業してくれたので、丸2日かかったことになる。ていねいな仕事だったので、もちろんお礼ははずんだ。 
 夕方から夜にかけてサラザーリ。あっという間にチョウモスがやってきた感じだ。発電所プロジェクト、多目的&仕事部屋建設の公私二つの大きな仕事が最終段階にきている中で、チョウモスへのエネルギーは以前の十分の一にも満たないかもしれない。でも、チョウモスなしにはカラーシャは語れない重要な祭りなので、無視するわけにはもちろんいかない。
 チョウモスのことについては、私の写真集「カラーシャ」、拙著「パキスタンへ嫁に行く」、あるいは丸山純氏「民族学」(1988年?)にくわしいので、ここでは細かい説明は省く。

電気がついた! 
12月8日
 発電所の機械を自らの手でスタートさせるために、タービン製造元のチョードリ氏がタキシラからやって来た。AKRSPの技術責任者バーバル氏とファスル・ラビ氏も同行。お昼どきだったので、普通のパキスタン人だったら、着いたらまず食事、お茶というところだが、一行は発電所に直行。タービン、発電機、コントロール・パネルをチェックした後、水路から水を引き、タンクに水をいっぱいにする。そしてタービンを作動させる。水管からタービンを通って冷たい水が勢いよく流れ、発電所はいっきに冷凍庫のように冷える。
 チョードリ氏はタービンを開け、発電機やコントロール・パネル点検しながら、天井の電球を見上げるが、電気はつかない。ずいぶん長い間発電機のあちこちをチェックした結果、スタートの役割を果たす(?)マグネットが弱っていることがわかる。チョードリ氏がタキシラの工場で、カラチのシーメンズから来た発電機とタービンを試運転していた時は問題なかったが、こちらに運ぶ途中あるいは運んできてから、マグネットが弱ったものと思える。マグネットの代わりに乾電池を使って何度も試した結果、天井の電気が始めほんのりと灯り、しだいにぐんぐん明るさを増してきた。このままだと、電球が破裂すると思った時、技師たちが拍手する。「ついたぞ。おめでとう!」
220ワットの規定通りの明るさは、こんなにも眩しすぎるほどの明るさだったのかと改めて認識する。村の家もこの数ヶ月間、暗いランプの生活だったのが、いっぺんに明るくなって、村人は大喜びだ。
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写真:発電所に電気が付いた直後。
ボンボレットのアニージ村では今日ハン・サリックが開かれるということだが、ルンブールではチョウモスが始まっているしで、年配の人たちはあまり行かなかったもよう。今夜、男たちは山羊小屋を浄め、パンを焼き、山羊小屋の守り神がスリザンに交代する儀礼を行う。

12月9日
 元の部屋から新しい仕事部屋に少しずつ荷物を運び始める。本当は仕事をするだけの部屋なのだが、どっちにしても、冬場の今すぐ仕事場で仕事をスタートさせることは難しい。それに、元の部屋は狭いだけでなく、窓も戸棚も未完成の部屋で、夜中はねずみが走りまわっている。窓の外は下の家の煙突から煤、隣の家の煙突から煙が襲うし、トイレ、水道からも遠い。トイレ付きの新しくできた広い部屋があるのに使わない手はないと移ることにしたのだ。もちろん、私だけで。
 夕暮れ時、発電プロジェクトのモニタリングと会計監査のために、ペシャワールの公認会計事務所からモハマッド・ユニス氏がやって来る。マルダン出身の彼はルンブールの寒さに震えながらも、ストーブのそばですぐに会計簿のチェックを始める。

12月10日
 引越し続行。外では女たちが集まってチューイナーリの歌を歌っている。まずは自分の部屋の落ちつき場所を確保せねばと、今年はパス。娘たちは歌いながら神殿に行って、チュウーインの草を置いた後、上流と下流の娘たちが川をはさんで歌合戦をやることになっていたが、お互いを罵倒する歌になるからと、今年は中止された。ゴシニック(通過儀礼)を受ける子供の父親が神殿で豆を煮る行事も、ゴシニックの子供が二人だけなので、行われなかった。
 会計事務所のユニス氏は発電所のすべての機械と部品、そして上流から下流まで歩いて、電信柱の器機や電線もチェック。モニタリングが入るのはカラーシャ谷で初めてなので、付添った村の青年は「釘1本でさえ、何のためにいくらで買ったのか訊いてくるよ。」とびっくり。ムシャラフ大統領からの援助金1000万ルピーで、現在建設中の神殿(各谷に二つずつ建設予定。ルンブールでは先日ハン・サリックをやった神殿ではなく、別に2つの神殿が建設されている。)は、計画書もなければ、見積書もなく、関わった者たちが金を取り放題という事態が通じる世界では、厳格な我々のプロジェクトの方が理解できないのかもしれない。
 いったんチトラールに戻ったチョードリ氏が再び点検にやってきて、タービンのベアリングに少し異常な音がすることが発覚する。このままでも動くことは動くが、気になるので、ベアリングをはずしてタキシラに持って
帰り作り直したいという。せっかく電気がついたのに2日で夢は破れたのか!「ベアリングが遠いタキシラから戻ってくるのは、冬場のことだし、1ヶ月先になるのだろう」と言うと、「いやいや、明日ペシャワールに飛び、すぐにタキシラに戻って、作業をする。3~4日でこちらに戻ってくる。」とチョードリ氏は言うが、どうだか。
 新しい仕事部屋にベッドを運んでもらい、寝泊まりもこちらで始める。
 
12月11日
 引越し作業で、足もがくがく。

12月12日
 冬至に向かって日は短くなる一方。朝9時前に日が射し始め、12時すぎには陰ってしまい、実働可能な時間が短くて、やることはたくさんあるのにすぐに日が暮れてしまう。クタルムー。午後から各家ではたくさんのクルミパンを焼き始める。夜、シャラービラヤック焼き。私も羊と犬を作る。

12月13日
 午前3時に地震。けっこう揺れた。後できくと、先日私が泊まったマウンテンインの部屋の壁の塗装が全部剥がれ落ちたそうだ。
 引越しで負担をかけているのだろう。股関節の調子がすごく悪くて、荷物の整理や他の作業ものろのろ。あっという間に日が陰る。ご先祖の霊が戻ってくる行事、マンダイックの日は髪結い、洗濯などは禁止とされているのに、若い娘たちは無視して洗濯していたとか。こうやって少しずつ行事の内容も変わっていくのだろう。新しい神殿でのマンダイックも年配の人たちが少なくて盛りあがりにかける。
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 写真:神殿の前で、ご先祖の霊への迎え火を灯す。

12月14日
  掃除・洗濯の日。午前中洗濯した後、日本そばのランチ(おいしかったよー)。午後、仕事部屋の作業台のリペアー、棚の取りつけ等。ジャムシェール、第二番目の本棚と机をアユーンから持ってくる。今度の本棚は一応注文にそっていたが、机は中途半端な高さで、足を切るか、足すかして改良しなければならない。

12月15日
 女性の浄めの日。朝7時頃から多目的ホールの窓の外ではシシャオ焼きが始まる。昨日ダジャリが薪を持ってきてくれたので、朝起きて、ストーブにちゃんとした薪で火を焚く。(それまでは材木の切り落としの中で、使いものにならないものを選んで焚いていた。)そうしたら、やかんの湯はすぐ沸いた。あまり節約し過ぎるのも時間の無駄のようだ。室内のトイレで沐浴して髪洗い。昔、河原でやっていたことを思うと、室内だと何と楽チンだし、かかる時間も半分以下で済む。12時半頃に私を含めた家族の女性の浄めの儀礼は終わる。以前は儀礼を受けた女性たちは、村の広場でバリマインの歌を歌っていたが、今年はなし。男たちは明日のために山羊小屋でパンを焼く。夜になって、ようやく女性たちが広場に集まり、歌を歌う。しかし歌いながら輪を横移動するだけなのに、1時間もすると足がつっぱって痛くなり、退散。夜中各家ではディッチ(超聖なる期間)に入る儀礼が行われる。

12月16日
 ディッチに入ってからのパンは新たにひいた粉で焼かねばならない。つまり朝食のためには夜中に粉をひくことになり、面倒なので、ほとんどの家庭では米飯を炊く。でも米は外のものだから、小麦よりよっぽど穢れていると思うのだが・・・ヤシールの家でごはんを御馳走になるが、この期間は野菜(特に玉ねぎはご法度)は口にできないので、ごはんだけなので、もの足りない気がする。男たちの浄めの儀礼、イストンガスのため、男たちは朝に沐浴。沐浴してから午後山羊小屋でイストンガスを終えるまで、椅子やベッドに座れない決まりなので、この時だけは普段地べたに座っている女たちが椅子を占領できる。
 バリマインの従者プシャオのために、各山羊小屋から選ばれた牡山羊がサジゴールで犠牲にされるプシャオ・マラットも行われ、男たちは忙しい。
 午後、家では新たにクルミパンを焼く。夜、アルコール度の強いタラ(焼酎)を呑んで、酔っ払い、足の痛さも忘れて、手拍子の輪の中で踊る。

12月17日
 昨日の酒で二日酔いということはなかったが、股関節の痛みはさらに増し、喉も痛いし、他にも体のあちこちが故障していることがわかる。ということで、親戚のゴシニックにも顔を出さず、男たちのサジゴールのチャッタイの儀の後に、バラングルで行う団結の輪に参加しただけで後は安静に過ごす。夜のチャンジャーも初めの方だけ参加して退散。
 パキスタン・タイムで数日ということは、来年になるだろうと思っていただけに、チョードリ氏が昼間到着したときいて、びっくりうれしや。超聖なる期間なので、ムスリムの彼やアジズ技師たちは、村の中には入らずに、責任者のサイフラーとも握手もせず、自ら発電所に行ってタービンを取りつけ、午後4時ごろ、電気が再び付いた。約束を守って当たり前といえばそれまでだが、約束なんてないに等しいことに慣れさせられている私はやっぱり感激してしまう。

12月18日
 徹夜のチャンジャー・ラットの翌日なので、行事行われず。私の股関節もひどくなり、調子も最悪なので、読書をしながら安静に過ごす。

12月19日
 ラワク・ビイーック。相変わらず調子が悪いので、本日も少しせんたくをしただけで休養。(聖なる期間にはせんたくをしてはいけないが、着替えがないので仕方なく隠れて行う。)

12月20日
 股関節は薪を3本持って歩くだけでも痛い。痛いから歩きたくなくて、どこにも行かず運動不足で、足がさらに固まりそう。悪循環である。天窓のカーテンを、ずいぶん前に東京の義理の妹からもらって着なくなったスカートをはいで作る。(物は大切に。リサイクルの精神)

12月21日
 本日でチョウモスは終わり、俗に戻る日。足の痛みは残っているが、全体的に回復に向かっているようで、気分もまあまあ。ゆっくりゆっくり動きながら、カーテンにするシーツの修理、せんたく、沐浴を終える。

12月22日
 危篤状態にあった、村はずれに住むムスリムの親戚ドゥールダンの次男が亡くなったとの知らせで、うちの女家族たちとお悔みに行く。チェックポストのボーダーポリスの隊長だったドゥールダンは改宗者だが、お悔みに駆けつけたカラーシャたちでいっぱい。亡くなった次男は20代の若さだった。幼い頃から胃腸に問題があり、何度も手術を受けていた。つい先日もペシャワールで手術を終えたばかりだった。やることはやったのだから、後は神の御意志とムスリムもカラーシャもなぐさめている。
 カラーシャの葬式の時に、チーズや肉の分け前をカラーシャと同じように受けているドゥールダンの家族だが、いざ自分のところの葬式となって、カラーシャにどう対応するか興味が湧く。ドゥールダンは今年退職して、長男が代わりにボーダーポリスの職についている。退職金ももらっているので、裕福でもある。だから、カラーシャの葬式のスケールとはいわないが、数頭の山羊を買ってさばいて、うちの村や親戚の家々に配るとか、そういうことをするのかと思ったが、なんのなんの、またしてもカラーシャの親戚たちが小麦粉やチーズを出し合い、パンを焼く手伝いをしたのだ。ほんとうにカラーシャは寛大というか、人が良いというか、こういうところが私には真似が出来ないカラーシャの長所であろう。
 ツナ缶(タイ製。チトラールで手に入る)と玉ねぎ、しいたけ(イスラマバードの中国人から購入したものをもらった)のホワイトソースにスパゲッティをゆでてブランチ。おいしい!カラーシャの食べ物よりおいしいよー。夜、頑張って、パソコン作業。数ヶ月間電気がなくて、夜は早めに寝るくせがついてしまって、パソコンに向かう気分がなかなか起こらないが、そんなこといってられないので、自分にムチ打って、デジタル写真を取り込む作業を1時間半ほど。

12月23日
 足の調子も6割がた回復。元の部屋に残っている細々した荷物(半分がリサイクル用のゴミみたいなもの)、子供たちに手伝ってもらって多目的ホールに運ぶ。運んでもその整理が大変だ。今は整理するエネルギーなし。
 チョウモスが終わって、発電所の用事で本日チトラールに行ったはずのサイフラーを訪ねると、なんと彼は足の甲にぐるぐる包帯を巻いて安静の状態。2日前にドゥールダンの家の2階べランダに立っていて、あまりにも悔み客が多くて、重みで板のベランダが壊れて、ベランダにいた人はみんな下に落っこちたという話は耳にしていたが、サイフラーが怪我をしたとは知らなかった。足が板の下敷きになって打撲し、すぐには痛まなかったが、家に戻ったら、歩けなくなったという。

12月24日
 クルミ(姪っ子)の火傷の治療をした後に、サイフラーの見舞いに行くと、フランス人のジェロム氏が来ていた。彼は30年前にルンブールに来てしばらく住んでいたそうだ。翌年また来ると思っていたのに、果たせずに30年もたってしまったという。今回は10月の北パキスタン地震の復興援助に尽力するNGO「国境なき医師団」のドキュメンタリーフィルムを作成しにきたついでに、ルンブールを訪れたという。
 「ペシャワールからの飛行機でエレクション・ビビと一緒だったので、谷にきてから彼女の家にも行ったが、カラーシャの女性があんな大きな家を持つなど30年前には思いもよらなかったことだ。とんでもなく不自然だ。しかし彼女の陰には大きな力がちらほら見える。私が彼女の家いた時にもDCOが来て、なんだか分厚いカラーシャに関してのレポートを渡していたが、あれがなんなのか気になる。」
 エレクション・ビビは今回のチョウモスにも姿を見せるどころか、途中でペシャワールに行ってしまった。彼女はカラーシャに関しての金ずるのプロジェクトを、カラーシャでなく他のパキスタン人と組んでやっているので、非常に危険だというジェロムだが、全くその通りだが、パキスタンの役人たちは金の前には正義もへちまもないので、こっちは悔しい思いをしながらも何も出来ない。

12月25日
 先日葬式のあったムスリムの親戚のところに、イスプレスとチーズとパンを持って行く。やはりカラーシャの年配の親戚たちが泊りがけで客の応対の手伝いをしていた。(ムスリムの親戚もいたが)
足の故障のために約束していボンボレットのたチョウモスに行けなかったので、近々ボンボレットに行かねばならない。そのためにチョウモス前にできなかったカラーシャ服を縫い始める。
 発電所の機械類がチトラールで初めての新しいものなので、人々の妬みから守るために黒い布の旗を発電所の屋根にかかげるようにと、エンジニアたちに言われたので、私が黒い旗を縫うことになる。新しいものと古い迷信の同居がおもしろい。

11月26日
 朝電気が消える10時までパソコン作業。(配電作業が終わらない家があるので、昼間は電気を切っているが、そのうち昼間も電気がつくようになる。)ジェムシェールに砂場のところの封鎖と仕事場の入口付近の整地をやってもらう。

12月27日
 本日も朝パソコン打ちをして、電気が消えてからミシンがけの作業。今夜はダガル(カガーヤック・・・カラスに願掛け)。男たちは午後から山羊小屋に行って、チョウモス時の最後の肉でモスアウ(肉パン)を焼く。女たちはただのクルミパン。夜9時過ぎからパケルの家に村人が集まって、来る年に向けての願いをカラスを通して歌う。しかし大人が歌を歌ってる後ろで、がきどもが壁に突き出た梁によじ登るわ、ギャースカ騒ぐわのあまりの行儀の悪さに腹が立つ。大人が叱ってもききやしない。その上狭い密閉空間で大人(男)はタバコを吸うわで、喉が痛くなり、私は11時過ぎに退場する。イスプレスたちは朝の7時過ぎまで、夜通し願掛け歌を歌っていた。

12月28日
 本日も朝パソコン、その後ミシンがけという同じパターン。カラーシャ服完成。夕方、突然AKRSPチトラール支部長がエンジニアを伴なってやってくる。新しい発電所を見にきたにしては時間的に遅すぎると思っていたら、「アユーンまで用事できたけど、ついでだからこっちに寄った。」と言う。つまり、ルンブールでタラ(焼酎)付きの夕食を期待して寄ったというわけだ。発電プロジェクトの責任者であるサイフラーは、突然の偉い客に、まだ治ってない足を引きずりながら、タラやおかずの鶏の調達に大わらわ。一行5人で、大きい鶏2羽をペロッとたいらげ、タラ3、75リットル、小麦粉のタシーリの残った分までお持ち帰りなさった。支部長は月給だけで10万ルピーもらっている方なのに、どうして、わざわざ発電プロジェクトでまだ賃金すら受けとってないカラーシャの家に押しかけてこなければならないのか?発電所はもちろん見らずに帰っていかれた。一目置いていた支部長だったが、ちょっと残念。

12月29日
 数日わりと調子よかった足、今日はこきこき。しかし、やる気はまあまあなので、床に敷物を敷く作業、沐浴もする。

12月30日
 パソコン作業。洗濯(しかし水が出ず、すすぎは翌日)。サイフラーのゲストハウスに泊まっているスイス人2人と話をする。彼らはボンボレットのバーヤ、ブトーのゲストハウスでチョウモスもやり、すっかりカラーシャの熱にはまって、「僕らも君と同じく、カラーシャにフォール・イン・ラブしてしまった。」という。カラーシャの行く末についても語り合った。しかし、カラーシャを好きで、行く末を心配するなら、サイフラーの家のベランダにあった薪を、男二人の腕で何抱えも勝手に自分たちの部屋に持って行き、惜しみなく焚き、サイフラーの家に焚く薪がなくなりそうになるということには全く気がつかないそういう旅行者だった。こういう自己中心で夢につかっているような旅行者はわりあい多い。
 
12月31日
 神経痛に効くというカラーシャの高地の薬草を、昨日からタマゲシャ・アーヤのところで飲ましてもらっている。彼女は1、2回飲んだだけで、痛い膝が軽くなったというが、私はまだよくわからない。風邪気味なので、読書をしながら、早めに就寝。

1月1日
 お正月にふさわしい雪。しかし雪も見るだけなら、村のゴミを隠し、情緒があっていいのだが、これでしばらくは交通が途切れるし、天気になった時の半雪解けの危ない道のことなど、現実を考えると嬉しがっている余裕はなくなる。最後の日本食であるフリーズドお雑煮を食べる。薄味でまずくはないが、もちも味気ないし、あまりにもあっさりしていて物足りない。そのうち、スワット米にコーンスターチ(?)を混ぜて、もちでも作ってみようか。

以下半病人の生活で省略。





 
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