カラーシャの谷・晶子便り

パキスタン北西辺境州の谷に住むカラーシャ族と暮らすわだ晶子の現地報告。

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06年7月26日
 別れ話を承諾した後もジャマット・カーンのことだから、あれやこれやいちゃもんをつけてくるかもと危惧していたが、意外にも彼はおとなしくしているので、ずいぶん活動がしやすくなった。
只今、多目的ホールと仕事部屋の内装の充実にむけておおわらわ。昨年まで建物を造ってくれていた大工さんはボンボレット谷でジェシタク神殿建設のために引きぬかれてしまったので、ジャムシェールを長期採用、給料制で正式に雇うことにする。彼は素人だが、これまでに屋根作り、床と壁のセメント塗りの請負いもやっているし、すぐ目と鼻の先に住んでいて便利、一応ウルドゥ語の読み書きもできるし(高校中退)、地面堀りなどの単純作業も文句を言わずにやる、それに静江さんのカラーシャ甥でもあるので、抜擢する条件は揃っている。
まず、水道工事。村を走る水道のメインラインから水道管を通して、トイレ、仕事部屋、多目的ホール入口の3ヶ所に蛇口をつける作業をパラワンに頼む。ジャムシェールを助手にして4日にわたる仕事となった。これで、トイレが使えるようになり助かる。
次に仕事部屋の流しを作る。カラーシャに限らずパキスタンの田舎の家では、洗い物をする際は地面にしゃがんでやる習慣があるが、私はやはり立ったまま洗い物をした方が楽なので、腰の高さのコンクリートの流しを作ることにした。
橋の下手でモスクの建築に携わっているコンクリート職人が、モスクの仕事が終わった後の4時から来てくれたが、立ち型流しを説明するのが難しい。デッサンを描いて見せると、うんうんと頷くが、それでもちょっとでも向こうを向いてる間に、幅や高さをとんでもないサイズにしてしまったりするので目を離せない。
1日目は型作り、2日目にコンクリートをはり、3日目に上塗りをして完成。立ち型流しはこの付近では全く初めてのもので、どういうものが出来あがるのか想像がつかなかった助っ人のジャムシェールは、出来あがった流しが気に入ったとみえ、「おれんちを新しく建てるときには、おれもこういう流しを作るぞ」と言う。この型の流しがカラーシャに普及するかどうかよりも、この流しができてから、家の中で食器やちょっとしたものがすぐ洗えるようになり、また一段と生活が便利になって、私自身非常に満足している。なにかとても贅沢している感じすらするのである。とにかく感謝。 
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  写真:日本の昭和初期の流しに似てる?
14日から10日間で、ジャムシェールに平板のカンナかけ、ノコ引きの仕事をやってもらい、私と共同作業で、キラン・ライブラリーの本棚2個、子供用の座り机5脚、私の机1脚、仕事部屋の作業机2脚などの必要家具を、苦戦して作り上げた。多少のゆがみはあるものの、この作業結果にも満足。しかし、箱を作ったので、中身の本を並べてみると、本がまだまだスペースに満たず、もっと本を購入しなければならないと気がつく。
6月にペシャワ―ルとイスラマバードのナショナル・ブック・ファウンデーションで購入した本とすでに持っていた本を合わせて、ボンボレットのムサシ・ディンがリストを作ってくれたが、それによるとウルドゥ語と英語の本を織り交ぜておよそ300冊、まだリストに入っていない私所蔵の本が50冊ぐらいあると思うが、何せウルドゥ語の本のほとんどは薄っぺらなものなので、本棚のスペースはガラガラだ。今度ペシャワ―ルとイスラマバードに行く時に、また購入したいと思うが、ペシャワ―ルでもイスラマバードでも大きい本屋は1度見てまわって子供の本は購入しているので、そうたくさんは残っていないはずだ。ラホールまで行かないとだめだろうか?
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Kiran Library up date


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大統領謁見なるか。


7月8日
3日前にルンブール谷にめったに来ない宣伝カーがやって来て、スピーカーからコー語(チトラールの言葉)で、「7月8日、ムシャラフ大統領がチトラールにお越しになるので、午前10時にポログラウンドに集まるように。女性も来るように。」とアナウンスしていた。
 昨年の同じ頃にも、大統領はチトラールだけでなくボンボレット谷にもやって来られた。しかし昨年はプライベートということで、事前にスケジュールが公表されず、地元の国境警察も警備隊も大統領訪問のことは噂があったもののはっきりした情報ではなかった。
 それでもお目にかかるだけでもと、髪を結い直し服を着替えてジープに乗ったところに、ジャマットの親戚が亡くなったという知らせが入ったので、葬式のために引き返したのであった。
 しかしカラーシャの冠婚葬祭などいつも無視、金と力しか眼中にないエレクション・ビビ(今はラクション・ビビと改名している)は、密かにボンボレット谷に向かい、「私はカラーシャの代表者だ」と言って大統領と会ったのだ。そして20日後には大統領からのカラーシャのための援助金として1000万ルピー(2000万円)を手にしていた。その金の大部分は彼女が横領し、今や彼女イスラマバードの屋敷に暮らす身分になっている。
 うその上にうそをついてカラーシャのための援助金を使って、女王のようにふるまっている彼女のことも頭にあり、今回はぜひ大統領と会い、カラーシャの自立を願うために頑張っている私たちのNGOの存在を知ってもらえば、できればエレクションの横領を調査してもらえば、これはカラーシャのためだけでなく、私自身の気持も少しはすっきりするだろうと思ったのだ。
 それで7月6日は朝早くから、大統領に渡すため私たちのNGOのパンフレット(英語版)にできるだけ写真を入れてわかり易く作り直す作業に取り組む。私のパソコンは5月にワードのソフトがインストールされたばかりで、まだ使いこなすまでにはいってないので、えらく時間がかかり、わき目もふらず作業して夕方までかかる。その後大統領への手紙を書かねばならない。うまいぐあいにサイフラーのゲストハウスにイギリス人のツアーグループが泊まっていて、彼らから夕食に招待されていたので、手紙のドラフトを持っていって彼らに直してもらう。おかげでりっぱな手紙ができた。
7月7日
 イギリス人ツアーのジープに乗せてもらってチトラールへ。西洋人はジープの幌を取り外してオープンで走らせるのが好きで、この暑い盛りにぎんぎんの直射日光に照らされ、なまぬるくて埃いっぱいの風でドパタ(薄手のショール)は吹き飛びそうになるしで、乗せてもらって助かったものの、乗り心地はうむむむだった。
 大統領に会うと言ってもそう簡単にはいかないだろうと、まず相談のため旧知の国会議員、バンダラ氏に電話する。残念ながら氏は海外出張中でつかまらず。次にチトラールの長、DCOに電話する。彼は明日のシャンドゥール峠で行われる最終試合(大統領がチーフゲスト)の準備のためにヘリコプターで下見に行っていて留守。夜に戻るというので、夜にも電話。しかしまだDCOは戻っておらず。
7月8日
 朝マウンテン・インに行き、インターネット接続の合間にもDCOに連絡。しかしつかまらず。インターネットのコネクションもうんともすんとも言わずつながらない。銀行で用事を済ませた後、取りあえず部屋に戻ってカラーシャ衣装に着替え髪を結い直して、ヌシャイディン、サイフラーたちとタクシーで大統領歓迎式の会場へ。
思った以上にセキュリティが厳しくて、ビデオカメラや携帯電話はもちろんボールペンやタバコさえも持ち込めない。ビデオカメラをちょうど通りかかった知り合いに預けて、パンフレット、手紙を持って会場に入る。すると前方の席にカラーシャの女性たちが十数人いるではないか。私も区切りを越えてそちらに行こうとすると、そっちに行くには、今来た入口から外に出て、ぐるりと回って別の入口から入らねばならぬと言われたので、逆らわずに別の入口から入り直す。
そちらの入口は前もって届けがあった人だけが入れるそうだが、頼み込んだらオーケーになった。ただし、写真集と手紙はもって入れないとガンとして言われる。仕方ないので、大統領のセキュリティの責任者に「じゃあ、あなたが預かって下さい。後で私がイスラマバードに来た時にお渡しするから。」と言って預かってもらうことになる。もちろんちゃんと名刺ももらったので、紛失するということはないだろう。
こういうプロセスの後で、私はカラーシャ女性たちが座っている最前列の、ステージに一番近い席に座ることになり、一息つく。しかしテント会場の中の暑いこと、暑いこと。そうでなくともカラーシャの服は暑いのに、外の風が遮られた中に数千人の人がほてって座っているのだ。この数日チトラールの温度は急上昇していて、ペシャワ―ルやラホールと同じ厚さになっているのに、扇風機なしでこの状態でいるのは、サウナの中にいるのとほぼ近い状態だ。
席についてからおよそ1時間半してムシャラフ大統領一行が軍のヘリコプター到着された。シャワール・カミーズ(パキスタンの国民服)姿の大統領は小柄で、一見してあまり目立たない普通の人に見えた。
ラワリ峠の下を掘って通すトンネルが今年から始まっていてそれがチトラールにもたらすメリット、ギルギット~チトラールの全道路を舗装、さらなる水力発電所の建設などのスピーチがチトラール代表議員、NWFP州の議員や大臣からあり、最後に長い大統領のスピーチがあってお開きになったが、その間何百回「パキスタン・ジンダバード!ムシャラフ・ジンダーバード」のコールがあったことか。これなくしてはパキスタンの集会はあり得ないようだ。日本で、「日本よ永遠に。小泉総理万歳!」なんてやる?
この日と翌日のチトラールは戒厳令が敷かれた町のようで、店は強制的に閉店、銃を持った兵隊が、パキスタン銀行そばの小さな橋だけでも18人立っていた。でも兵隊の兄さんたちは明るくて、私が通ると「元気?」「ニーハオ」などと声をかけてくれる。住人は外に出歩くことが禁じられ、インターネットもつながらず、ただぼーと解除になるのを待つばかり。夕方、ようやく解除になり、飛ぶようにルンブールに戻る。やれやれ。
 



6月20日
本棚が新しく来たんで、ペンキ塗り。午前10時に、昨年からビリール谷の小学校で自発的に英語と数学を教えているオーストリア人のイサベルが来る。彼女は国では高校の教師だったそうだが、その後ブータンに行き観光ガイドをしながら、ブータンとオーストリアを陸路で3度往復するうちに、ビリール谷にひっかかってしまったという。持ち金をはたいてビリールの一番奥の村に、住民を協力させて学校を1校建てている。なんだか私がボンボレット谷でカラーシャにひっかかったのに似ていなくもないが、彼女はもっと積極的で行動力があるようだ。
6月21日
私の帰国中に、頼んだわけでもない場所(多目的ホールのすぐ隣)に畑を作ったジャマットが、その経費(石を運搬するロバ使いへの支払い)を払えと、第三者を通して言ってくる。その畑に水を入れるので、こちらの物置と仕事部屋の壁の水の染み込みがひどくなり、逆に被害をこうむっているのに冗談じゃないと返事すると、いつものごとく悪態をついていたらしい。
6月24日~25日
ロバ使いの支払いも、離婚および多目的ホール&仕事部屋の土地の所有権を認めてくれれば喜んで受けよう。カラーシャのムスリムだけど、村の長老格的存在である、元ボーダーポリスの隊長のところに、ジャマットとの件を解決してくれるよう話にいく。普通のことでも問題を複雑にへんちくりんにしてしまうジャマットのことだから、こちらも言うべきことをきちんと把握していないといけないと思い、ここ10年間の日記をひっくりだして、ジャマットが私に対して行ったこと、私が行ったことをピックアップして、パソコンで箇条書きする。
読むだけで2日かかってしまったが、改めて「私は忙しい10年間を送っていた」ことを確認する。ジャマットは逆にUNDPのプロジェクトが始まった頃から、どんどん「楽してお金をせしめよう」という態度があからさまになってきていて、それと同時に罵詈雑言も多くなっている。私が苦労して持ってくる外からのプロジェクトが彼を駄目にしたという部分もある。しかし一緒に生活している夫婦だったら、私がお金のためにプロジェクトを組むような人間ではないとどうしてわからなかったのだろうと残念に思う。
6月26日
ヤシールが来て、ジャマットが別れ話の件、あっさり承諾したと報告にくる。何だか肩透しを食ったようだ。
6月29日
広島のドクター平位がお見えになる。昨年は留守中にいらしたのでお会いできなかった。平位先生は薬のために足元がふらついておられたが、ワハン回廊や中央アジアに対する想いは今も変わらず、これからアフガニスタンに入って、タジキスタンに行かれるということだ。
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