カラーシャの谷・晶子便り

パキスタン北西辺境州の谷に住むカラーシャ族と暮らすわだ晶子の現地報告。

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ハンディクラフト・クラブ(研修会)はすべり出し好調。

 最初のミーティングの後、2回目の研修会に先日集めたメンバーたちは来るだろうか、けっこう気分で動く人たちだから、半分ぐらいは来ないかもしれないと思っていたが、バシャリ(出産・生理の女たちが滞在する家)に行った娘1人を除いた6人、誘い合ってやって来た。
 最初の実習は、織り紐シュモンの縦糸セッティングを、縦糸を組む枠でやる練習をしてもらう。カラーシャの女たちは縦糸を組むときは、自分の足の指にひっかけてやるが、それだと糸を組んでいるうちに長さが短くなってしまうことがあるし、けっしてきれいとはいえない足の指にひっかけると、糸も汚れる。シュモンはカラーシャの伝統的な織り紐で、あぐらをかいた姿勢で縦糸を肩からひざにタスキ掛けにして、横糸を胸のところで織り込んでいくだが、今の若い娘たちは10数年前に遊牧民から伝わってきたショケックという編み紐を作るようになり、シュモンを知らない娘が多くなった。シュモンは祭りや祝いのときにお客の肩に掛けて贈るもので、伝統習慣を引き継いでいくためにも、娘たちにシュモン織りを学んでもらいたい。今回招集したメンバーの40代の女性2人と私が講師役で、娘たち4人に縦糸のセッティングから教えていく。やったことはなくても、母親たちが織るのを見ているので、だいたいはできるが、まったくできない娘もいる。
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写真:講師役の女性たち(奥の2人)からシュモン織りを教わる娘たち

 2時間の実習が終わると、女たちは「明日は何時から?」と積極的にきいてくるので、はじめは週に2回もやればいいと思っていたのが、毎日やることになった。実習4日目からは、娘たちはシュモン織りを、講師の2人にはクパースの貝縫いをデモンストレーションしてもらった。1日目はぺちゃくちゃと口の方も賑やかだったのが、2日目からはそれぞれが静かに作業に励んでいるので、バックグラウンド音楽としてコシナワス翁の話や冠婚葬祭の歌のカセットテープを流してやる。耳でカラーシャの歌をきいて覚え、眼と手でカラーシャのハンディクラフトを作り出す。まさに理想の労働環境ではないか、と一人満足。
 ミシンがけに慣れているグリスタンには、シュモンを飾りに縫い付けた小袋(これは前々から私が作っている商品)の作り方を段階ごとに教えていっている。と1週間は順調に進んでいたが、8日目に親戚の男性が亡くなったので、3日間のお葬式で中断。葬式明けに来たのは娘2人だけ。年配の2人は亡くなった人の近い親戚なので、最低一週間、長くて次の祭礼行事の前日まで喪に服すことになっている。喪中期間は色糸を使っての作業は禁止されているので、研修会に来たくてもこれないのだろう。(わだ4月11日)
女性たちの研修会の様子を見ていると、何しろひとつひとつがたいへん。
今まで返し縫いをしたり、メジャーで測ったりをしなかった(必要なかった)人たちですから。
商品としてどんなことが必要かを、晶子さんがひとつひとつ教えようとしているところです。(むらくし)
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日本より忙しい生活

 チトラールには午後1時ごろ到着。自家用バンのタクシーをチャーターし、外国人登録をする静江さんについて警察へ行き、当面必要な米、紅茶、缶詰、ラーメン(パキスタン製)などを購入して、行くぞ1年ぶりのルンブール!には夕方5時頃到着。葬式があったばかりだったが、村人は元気だった。みんな、「足は良くなったか」ときいてくる。「悪かった骨を取って、別の人工骨に取り替えたから、もう痛くないよ。」というと、びっくりこわそうな顔をして、「そりゃ、ほんとに大変だった。我々もあんたの手術が成功するよう祈ってたよ。でも良くなってよかった。神のおかげだ。」てな会話をあちこちでする。私の住処である「多目的ホールと作業室」の門からに建物に通じる通路はジャムシェールが石畳にしてくれていた。前はただの石混じりの荒れ地もきれいに整地されて花が植えられた庭になっていた。これは静江さんが昨年ジャムシェールに発破かけて指示してくれたおかげだ。
 翌日から荷物をほどいたり点検するのと平行して、今年予定している2階の増築を引き受ける大工さんを手配や、多目的ホールでの活動のために忙しい。いつもの私だったら、長期間留守していたので、荷物のチェックや掃除、洗濯だけにまず1週間はかけていたところだが、私の足を考慮して静江さんが外に連絡に行ってくれたり、また大工の手配に関してはヤシールがあちこちに動いてくれたので、1週間のうちに大工の手配も済み、学習会、ライブラリー、ハンディクラフトの研修会を始められたのは快挙であろう。
 大工手配は結局2週目半ばにして、決まっていた大工さんがダメになり、振り出しに戻ることになって困ってしまったが、最後の望みの綱である谷の支流奥に住む定住遊牧民(グジュール)の大工2人がやってくれることになり、やれやれというところ。

多目的ホールでの活動
 盗難と保護のために、昨年秋の活動を終えてからホールに置いてあった2階の増築用の木材を、私たちが村に着いた翌日、ジャムシェールと若者2人で外に出す。2日目、セメント床を水で流しながらきれいにして敷物を敷いてもらい、私は書類やノート・パソコン、ビデオカメラ、テープなどの機材が入っているキャビネットの掃除と整頓。3日目には女性を集めての「学習会」を行う予定だったが、雨で翌日に延期した。
 4日目、午前中に手すき紙用の戸棚の掃除と整頓をしている最中、静江さんがグリスタンを呼んできてくれたので、翌々日に行うハンディクラフト研修会についての打ち合わせ。サイフラー議長の一人娘のグリスタンは、家でゲストハウスを経営しているので、ビーズの腕輪(バスバン)や頭飾り(シュシュット)を作って外国人のゲストに売ったりしていて、他の村の娘たちより外国人のハンディクラフトの好みなども理解しているし、何と言っても独身でしばらく結婚しそうもなく(プロポーズされたりはしていると思うが、彼女にその気が見受けられない)いろいろと動きやすいので、いずれは彼女にハンディクラフトの責任者になってもらおうと私たちは考えている。彼女も交えて、うちの村とちかくの村の女性の中で、手が器用で、幼い子がおらず、時間の融通がきく女性を7人ほどハンディクラフト作成隊として選ぶ。
 午後3時からは「女性たちの学習会」。まず、ホールの玄関前に小さい女の子を集めて、ビスケットを配る。これは新潟の本間さんから「子供たちにお菓子をおみやげに買って」といただいたお金でチトラールで買ったものだ。「金をもらえないのなら、語りはしない」と言っていた語り部のコシナワス翁もひょこひょこやって来て、入り口の前で躊躇していたので、「ほらほら、ホールに入って。あなたの話も必要なんだから」と促すとあっさり入ってくれた。
 翁は昨年からボンボレット谷で活動するギリシャ人NGOに雇われて、ボンボレットの学校で語りをするのに毎月6千ルピー(1万2千円)の高給をもらっている。冬の間はギリシャ人が国に帰るので、翁は村に戻ってきているが、休みなのに月に3千ルピーをもらっているという。何もしないで給料をもらっているのだから、学習会で30分ぐらいカラーシャの祭りや伝統行事について話をするのは、次世代に継承させていくのに必要なことだから進んでやってくれてもよいのに、いちいち金、金とうるさいのには少し腹が立つ。せっかく、いくらかのお礼は出そうと思ってはいても、向こうから言われると嫌になる。
 コシナワス翁の喪開けの行事についての話があった後、DVD上映会をする。今回日本から持ってきた「日本の祭り(神)」を上映。東京浅草の三社祭や千葉のはだか祭り、秋田のかまくらなど日本の種々の祭りを楽しんでもらった。中でも佐渡の羽茂まつりの五穀豊穣、子孫繁栄を祈願しての踊り(男たちが面をかぶって男女の営みを踊りにしたもの)にはみんな笑っていた。カラーシャのチョウモス祭りでも全く同じ主旨でこの踊りが行われるので、説明は不要だった。海で行うはだか踊りも、海の波を見たことのない山の民たちには想像を絶する祭りに見えたもようだった。帰りがけに大人たちにもビスケットを手渡す。
 5日目。翌日にイストンサーラスの行事があるので喪明けの行事が、前の週に葬式のあった家で行われるので、10時すぎ、人が少なくなった頃を見計らって行く。グロム村は急勾配にへばりついて建っているので、人工股関節を入れている身としては、乾いた土で滑りやすい下り道がちょっとハラハラだった。午後に「キラン・ライブラリー」を開ける。小学校の年少組がたくさん来た。ヤシール(教員)も来てくれた。年少組の中にはしかしほとんど字を読めず、ただページをめくるだけの子もいるが、本に接する機会を持つだけでもよしとしなければならないとは、元教員の静江さんの言葉。今回新しく仕入れたウルドゥー語の絵本の中から1冊、ジャムシェールが読みきかせをした。
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写真:読み聞かせをするジャムシェール
 7日目はハンディクラフト研修のミーティングを開く。私たちが選んだメンバーの他にグロム村からも、カラーシャ伝統の織り仕事を積極的に行っている女性も来たので、指導役の2人のおばさんと5人の若い娘たちで計7人の参加となった。まずは私がカラーシャ織りを生かして作った袋物や、アジアの国で買った小物などの見本品を手に取らせて見せる。そして、「こういった売り易い小さなハンディクラフトをホールに展示すれば、みやげが欲しいツーリストはたいてい買ってくれる。カラーシャ服や帯、頭飾りはかさばるし、値段も高いので、特殊なツーリストしか買わない。どういうものが売り易いか、私や友人が指示するので、カラーシャの特色を出したハンディクラフトを作ろうではないか。それが売れれば、作る人にも賃金を払えるし、売ったお金の一部はホールでの活動資金源にもなる。ホールでライブラリーや学習会などの活動は、今の時点では日本の友人たちからの寄付でやっているけど、いずれは自分たちで資金を作り出すようにしなければ、この活動は成り立たなくなってしまう。みんなでがんばればお互いの利益になるから、やっていきましょう。」と話す。グリスタンはNさんからいただいた編み紐の本の写真解説を見て、「写真で一つ一つやり方を載せてあるから、この通りにやれば、すぐできるようになるよ。簡単!」と顔を輝かす。いずれ、こういった新しい挑戦もしてもらうことになるだろう。 
 上記のように、村に着いてわずか1週間でこれだけのことを行った。その上、今回はだしの素、わかめ、のり、ふりかけ、梅干しなど日本食材があるので、それらと現地の野菜や缶詰、玉子などを取り合わせて、ごはんやスパゲティーなどを昼食と夕食を私たち2人できっちり作っているので、1日中フル回転に忙しいというわけだ。

バラングル村に戻るまで


 3月17日、パキスタン航空(PIA)の北京経由イスラマバード行きの便に乗るために静江さんと成田空港で待ち合わせる。空港には森田さんも見送りに来てくださっていた。森田さんとは初めて顔を会わせたが、多目的ホールでの活動への支援金とハンディクラフト活動への提案をいただき、お友達にも協力を呼びかけてくださるということで、今後の展開が期待できそうだ。
 イスラマバード空港へは午後10時頃に到着。いくら20年以上前から滞在していて慣れているパキスタンとはいえ、最近とみに治安が悪くなっている様子なので、夜遅く女2人で空港からタクシーに乗るのはあまり気持ちが良いいものではなかったが、空港の管轄下のタクシーの運転手さんはめずらしく真面目でよけいな口もきかず、安全運転に気を使うタイプでほっとした。
 イスラマバードではいつものように友人のファウジアの家に2泊お世話になる。近くの本屋でキラン・ライブラリー用の本を30冊ほど購入。3月20日の早朝、ファウジアの妹サマーがレンタルしたハイヤーに乗せてもらってペシャワールへ。サマーはケンブリッジ大学で民俗学の修士を取った秀才だが、近年はパキスタン女性の眼から見たドキュメンタリー映画を制作している。今回は北西辺境州政府とドイツのNGOに依頼されて、「結核病の撲滅キャンペーン映画」を作ったので、完成披露のためにペシャワールに行くという。結核は8ケ月間の治療で治るもので、政府は患者に対して無料の治療を行っているのに、それを知らないで金がないからと病院に行かない、あるいは8ヶ月継続すべき薬の治療を途中で止める患者が多く、北西辺境州では毎年1万人が命を落としているという。カラーシャにも結核にかかる人がいるので、彼女の映画を多目的ホールで見せたいというと、サマーは予備に持ってきたDVD(パシュトゥ語)を1枚くれ、次回私がイスラマバードに来た時に、他にも学習会に役立ちそうなウルドゥー語やパシュトゥ語のDVDをちょうだいできるという。ありがたいことだ。
 ペシャワールのPIAオフィスに行くと、ペシャワール~チトラール便のフライトは悪天候のため、2日間欠航なので、翌日の便を取るのは不可能とのこと。次の日もまた欠航したので、あと数日待たねば席が取れないかと心配したが、知り合いのニサールさんのおかげで、22日の2便が取れた。滞在していたホテルで、7年前にボンボレット谷のチョウモス祭の撮影に来ていたカメラマンのMさんにばったり会ったのも奇遇。
 22日、ペシャワール空港でチトラール行き2便を待っているときに、静江さんの昔からの知り合いのアユーンの獣医さん、ドクター・シャキールにばったり会う。ドクターは昨年、私が帰国中にジステンパーにかかった飼犬のハナを、静江さんがアユーンまで連れていった際に、とても献身的に診てくださり、予防注射もしてないハナはその後3ヶ月生きのびている。パキスタンはテロリストの巣と思っている人もいるかもしれないが、パキスタンのほとんどの人たちは一度親しくなったら、家族のように親身になって世話をしてくれる。カラーシャの谷にこうやって住めるのも、ここまで来る途中に良い友達や知り合いがいて、助けてくれていることも関係しているだろう。
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