カラーシャの谷・晶子便り

パキスタン北西辺境州の谷に住むカラーシャ族と暮らすわだ晶子の現地報告。

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8月2日
7月の一ヶ月間の夏休みが終わって、パキスタンの学校は8月1日から新学期が始まった。2002年に、谷の生徒に支給する教科書の援助金して美穂子寄付金からいただいた20万円(2002~3年に行った巡回図書箱活動費も含む)、今は北西辺境州の政府が教科書を無料配布してくれるようになったので、進級試験で成績のよかった生徒たちに優秀賞としてノートなどの文房具を渡すようにしている。昨年留守していたので、昨年の生徒も一緒にして、41人の生徒にノートを3冊ずつ(英国数)贈った。昨年も今年もトップだった生徒は6冊のノートを受け取って得意そうだった。
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8月12日

新しいカラーシャたち
おととい、ムサシとヤシールが訪ねてきた。(ムサシは丸山純さんが名付け親)2人ともボンボレット谷ブルーン村の若者だが、今は外に出て働いている。ムサシは、一昨年のカシミール大地震の被害地の一つであるダルコットという町で、Sungi Development Foundationという名の通ったNGOでフィールド・コーディネーターとして働き、もう一人のヤシールは3年前からギリシャに渡り、ギリシャ人女性に協力してカラーシャの本を出した後、そのままスーパーマーケットで働いているという。
ちょうど多目的ホールを、サイフラー・ゲストハウスのイギリス人ツアー客のために「ハンディクラフト展示場」にしていたので、2人に見せたら、デジタルカメラでバチバチ写真を撮りながら、ムサシは「ナーナのこれらのハンディクラフトを僕の職場に紹介するよ」(Sungiは村人のハンディクラフト販売促進も行っている。)、ヤシールも「ギリシャで売るようにしよう」と言うのだ。「いや、まだいろんな場所で売るまでにはなってないから」と私の方は積極的ではなかったものの、いやはや、なかなか頼もしいではないか。
いやあ、時代は変わったとつくづく思う。21年前に、私は旅行者としてボンボレット谷に入り、翌年春からムサシの家に居候し、その冬にムサシの父さんと姉弟の契りの儀礼をして、家族の一員となったのだ。ムサシは当時5歳ぐらいの活発でやんちゃな男の子だった。顔(特に口のまわり)は泥と煤と食べた物で仰天するほど汚れ、手足は汚れで皮膚が黒くかさぶたのように堅くなっていた。私が一生懸命石けんで洗ってやっても落ちなかった。服を洗ってやったときも、すすぎを10回以上やってもまだ水が澄まなかったのを覚えている。それが今は洗い立てのシャワールカミーズが似合う清潔な若者になっている。もうずいぶん前から携帯電話を愛用していて、ちょっとケータイ中毒(他の国の若者と同じく)なのがたまに傷だけど。
ヤシールは、彼の母さんが美少女の面影を残したまま若くして亡くなったんで、少し憂いをふくんだ子供だったかと思う。私がルンブール谷に移り住んでから、ペシャワール付近の知り合いの家から学校に通っていたまでは覚えている。ギリシャに行くとも言っていたけど、一時ボンボレットの学生の間ではバカの一つ覚えみたく、「ギリシャに行く」という言葉が飛び交っていたので、誰が行ったのか行かなかったのかはっきりしなかったのだ。
ボンボレットでの、ギリシャNGOの過剰な援助に、「行き過ぎた援助は逆にカラーシャをダメにする」という危機感を持っているので、「誰も彼もがギリシャ、ギリシャと、ギリシャに頼ってしまって。カラーシャはアレクサンダー大王軍の末裔だっていうのは証拠もないし、DNA検査ではつながりはないと言われたのにさ」といい顔をしていなかった私も、実際ギリシャで独り立ちして生活しているヤシールを見たら、「よかったじゃん。」と喜んでしまうのだ。
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ブルーン村のヤシールがギリシャで出版したカラーシャの本
ジェシタック神殿に立っているのはヤシール本人
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