カラーシャの谷・晶子便り

パキスタン北西辺境州の谷に住むカラーシャ族と暮らすわだ晶子の現地報告。

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パキスタンに到着

2009年3月29日
 3月26日の夜中3時過ぎにドバイを発ち、3時間のフライトでペシャワールに着く。ペシャワールは昨年12月に来たときよりは若干雰囲気が良くなってるように思ったが、翌日、私が泊まっているホテルと同じ道路沿線のトライバル・エリア(部族区域)で70人以上の死者がでる自爆テロが起こり、安心は禁物。
 ペシャワールでは、フィダさんの家族に会い、カラーシャで橋、神殿、トイレなどの建設支援活動をしているイギリス人のモーリンさんを訪ね、昔からの友人である弁護士のカリッド・カーンさんに電話しただけで、極力ホテルに留まって2日間を過ごし、28日イスラマバードに向かう。

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写真:ペシャワールのジャムルード道路

 イスラマバードではファウジアの家にいつも世話になるのだが、ファウジアはペシャワール、イスラマバード、ラホール、カラチ、クエッタでの一連のアート・ワークショップが終わったばかりで、一息ついているところだ。
 3月末だから暖かいと思っていたが、天気が曇り時々小雨だからか、けっこう涼しく、みんなセーターを着ている。(ドイツ人ハーフのご主人だけは半袖姿。ヨーロッパ人は寒さに強いのだ。)今日は日曜日だったので、どこにも出かけず、長い昼寝をした。移動の連続で疲れていたのかな。
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ドバイ滞在記

09年3月23日
ドバイへ出発に関して

 ブログの更新しなければと思いつつ、早2ヶ月近く経ってしまった。
 特に佐賀から東京に戻った2月末からは、世話になっている方、支援して下さっている方々にお会いすることを優先したので、精神的には非常に満ち足りた毎日ではあったものの、パソコンに向かってブログを書き込む余裕がなかった。パソコン作業は、インターネットが常時使えないパキスタンに戻る前に、インターネット・フリーの弟家族のところでアップデート、ホットメール連絡を整理、書類や写真の保存などをまずやり終えなければならず、日頃やっていない、こういった作業に手間がかかり、ブログのための時間がとれなかたのだ。(私のブログは長たらしくなるのでね)
 
 今回はペシャワール~ドバイ~関西空港~羽田空港の往復航空券の復路を使う。12月の往路の時は、ドバイでは数時間のトランジットだったので問題なかったが、今度はドバイに2泊することになっている。
 というのは、昨年12月にペシャワールで、東京までの航空券を買うときに一緒に来てくれたニサールさんが、「たまにはドバイ経由にしてみたら?泊まるところは自分たちのフラットがあるから。」と提案してくれ、エミレーツ航空の切符代も、パキスタン航空の東京直行便と1万円ほどしか差がなかったから、「たまには新しい国を見てみるのもいいか」とその気になったのだ。
(フィダさん、ニサールさんたち5人兄弟とその家族は、私にとって「ペシャワールの家族」みたいな存在で、ペシャワールではいつも世話になっている。)
 2月になって、ニサールさんにペシャワールとドバイのメールアドレスにEメールを送ったのに、どういうわけか両方とも戻ってきた。それで今度は手紙で「ドバイの連絡先などをメールで知らせるよう」書いてペシャワールに郵送したが返事がない。ま、電話すればいいかもしれないが、パキスタン国内から電話しても、オフィスの電話には外出でつかまらない、家に電話すると、家族(女、子供)がパシュトゥー語で話すからちんぶんかんぷん、たくさんもらっている携帯の番号はオフになっていたり、知らない人がでたりで、まともにつながったためしがないので、つい、無駄な国際電話料金を使いたくないという気持ちで躊躇してしまうのだ。
 それで、パシュトゥー語を話すイスラマバードの友人ファジアにメール出して、「ニサールさん兄弟に連絡とって」とお願いしたけど、彼女もつかまえるのになかなか大変だったらしい。やっとニサールさんの弟からメールが来たけど、ドバイの住所はなくて、ただ知らない人の携帯電話番号があるだけ。そのうちニサールさん本人から「これからドバイに行く」というメールが入って、彼自身の携帯電話番号もあったので、ほっとする。
 出発を数日後にひかえて、一度連絡確認した方がよいだろうと、ニサールさんから教えてもらった番号に電話するが、何度やってもオフになっている。それではと、弟さんからもらっていた電話番号にしてみると、教えてもらった人が出た。「こちらは日本から電話しているんですが、えーと、ニサールさんと連絡とりたいけど・・・」と話すと、向こうが「今、ちょうどそばにニサールがいるから代わります」といって代わって電話に出た人は、あれ?違う声だ。「私はニサールと話したいんだけど」とこちら、「はい、僕はニサールですよ」と向こう。「いえ、あなたは声が違うので、他のニサールだと思います。ニサール・マハメッドさんです」「はい、僕はニサール・マハメッドです」「えっ、どういうこと???」「僕はニサールですよ」「ごめん、何かのまちがいでした」と電話をオフにする。この電話で、一時安心していた気持ちがまた不安へと変わる。
 その後も何度かニサールに電話して通じなかったので、決心してペシャワールの弟さんに電話を入れたら、2度目でわりあいスムーズにつかまり、違う電話番号を教えてくれた。(その番号をどうしてはやくメールで教えてくれなかったのだ!)この電話番号でドバイのニサールさんと話をすることができて、「空港まで迎えにくる」ときいて再びほっとしたわけだ。(後で、同姓同名の別のニサールさんが、ほんとうにそばいたということがわかる。ややこしい!)

 22日の羽田空港から関西空港行きの便は、強風と雨のために50分も出発が遅れる。でもJALとエミレーツ航空は提携しているので、遅れてもちゃんと待ってくれているはずだとあわてなかったが、意外にも関空では「乗り継ぎが10分しかありません」と、隣に係の女性がついて「走ってください」とせかされた。「障害者で走れません」というと、手にもっていたみやげの胡麻だれ餅が入った袋を持ってくれた。広くてがらーんとした夜の関空を競歩させられてぎりぎりセーフで搭乗。
 飛行機はけっこう空いていて、窓側の2席のところはみんな一人しか座っていないが、私の席は通路側で、隣にはちゃんと男性が座っている。長い飛行時間なのに運が悪かったなと思っていたら、食事が出てしばらくしてから、隣の男性とその友人は別なところに移っていったので、私は4席独り占めできることとなった。映画、音楽、ニュース、ゲームなど1000種もの選択ができる専用画面で、始めは新しい007の映画を見ていたが、(格闘シーンなどで、あまりにも画面が変わるのが速すぎるし、何か今一だった。ただ、悪者が、善人の顔して環境問題に関わる仕事をしているということ、水がこれから一番貴重な資源になるという話は暗示的だったが。)
 4席の肘掛けを上げて横になり、UKヒットの1963年~1964年を聴きながら夢の中。思えば、1963年といえば私はまだ11歳だったはずだが、20~30曲のほとんどを知っている。昔はヒット曲が日本に上陸するのも数ヶ月の時間がかかっていたであろうから、12歳にはなっていたと思うが、あの頃の曲を聴くと胸がきゅーんとせつなく、ほんわり暖かくとってもいい感じになれる。そして、12歳の頃に経験、体験、形成したことは強く心の芯にしみ込み、その後の人生にいかに大きな影響をもたらすかを、空を飛びながら、感動的に強く確認してしまった。63年ヒット曲の後は、12月に逝ってしまった(けど、その辺を飛んでるかも)陽さんが好きだったボブ・ディランを選んで眠りに入る。せちがなくなってしまった今の世の中に、またディランの歌が合うようになったね。
 ということで、12時間フライトのうち10時間はとても幸運な身でありました。

3月23日午後
 ドバイ空港に6時に到着。早朝にかかわらずニサールさんがちゃんと迎えに来てくれていた。アラブ首長国連邦は7つの小さな首長国(国というより市という感じ)から成り、ドバイはアブダビの次に大きいそうだ。近代的な高層ビルが林立し、その中に洗練されたデザインの美しいモスクがそこあそこに見える。緑の芝生に花が植えられ、ゴミがまったくない。東京の街が薄汚れて感じてしまう。
 ニサールさんの車はドバイを通り過ぎて、隣のシャルジャ首長国に入り、どんどん走る。次のアジマン首長国との境に建つ建物の前で車は止まった。何だか、カイバル峠に建つ門のようだと思ったら、そこはパキスタン人、しかもディール出身の人が経営するリゾートホテルの入り口だった。ニサールさんは自分たちのフラットに泊まればいいと言っていたが、おばさんとはいえ私は一応女性だし、気を使ってくれて、どうもこのプール付きの高級そうなホテルに泊まることになるようだ。経営者がニサールさんのちかしい友達というから、特別割引料金で泊めてもらえるだろう。
 部屋でシャワーを浴び、大きくふかふかのダブルベッドで寝転んで、大画面(横100cm、縦50cmぐらい)のテレビでBBCニュースを見ながら一休み。午後1時、ニサールさんがシャハッド君を連れて来る。不動産関係の仕事をしているシャハッド君はスワット出身で、ドバイに住んで4年になるそうだ。
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写真:1日目の案内をしてくれたシャハード君

 シャハッド君の案内でこの日はドバイ見学。まず巨大な総合ショッピング・モール、シティセンターで両替して(1ドル→3,5ディルハム→3円弱)、センターのフード・ストリートでレバノン料理のヴェジタリアン・ディッシュ(28ディルハム)とレモンジュースのランチをとる。4種の料理を選んで盛りつけてくれるのだが、全体的にややすっぱい感じ。量が多くて、半分残さねばならなかったのがつらかった。
 その後、ゴールド・スーク(金の市場)、建設中の世界で一番高くなる予定のビル、海を埋め立てて建てられている高級リゾートホテルやビラ群、1泊何十万円というホテルなどを見てまわり、ついこの前まではただの砂漠だったところに、これだけの人工の街を造った(商魂たくましい)エネルギーにはびっくりさせられる。スムーズで幅広な道路も、夕方は交通渋滞で、シャルジャのホテルに戻るのに2時間かかった。

3月24日
 アラブ首長国の2日目は、午前中にこのブログ書きなどを部屋でして、午後からは案内人を断って一人でシャルジャの文化遺産区域に行くことにする。乗ったタクシーの運転手はアフガン人でこちらに来て18年になるという。私がオールド・スークに行きたいというと、「あんなとこに行って何になるんだ」と反対される。「あんたの判断じゃなく、私の判断で行くんだから、だまってなさい」と我々はブロークン・パシュトゥー語で会話。
 たくさんの小さな貨物船が停留する岸壁を道にはさんだところで降ろしてもらう。イラン市場とも呼ばれるこの辺りは、イランからの小規模貿易が昔から行われていたらしい。この区域にいくつかのアート・ギャラリーがあった。ふつうの白い建物の中にあるので、一見ギャラリーとはわからないが、入ってみるとけっこうプログレッシブな作品が多くて驚いた。
 2階の会場全部を使って、足踏みミシンに縫い台に世界中の国旗を置き、糸を蜘蛛の巣のように張り巡らせてある作品。今世界には200以上の国があるだろうから、それらの国旗を描き、その数だけのミシンを用意して、糸を張り巡らせ、様々な布の切れ端を床に撒くという根気には脱帽。1階にはコンテンポラリー映像も、わけがわからない立体アートなどもあって、こういう作品を展示してくれる(理解ある)ギャラリーがあるというのがまた興味ある。
 また別のギャラリーにもおもしろい映像作品が展開していた。例えば、こちらに出稼ぎにきているインドの労働者の働く現場と、彼のインドの家族の2つの映像を向かい合う壁に映した作品は、加速度的に発展した人工都市を実際に造り、支えている労働者の現実(労働環境は悪い)と、逆に発展途上と呼ばれるかもしれないが、鳥がさえずる緑の木々に囲まれた小さな家の前に立つインドの家族たちとの、二つの対照がなかなか暗示的な作品などを、昼間に入場者など誰もいない中で一人でゆっくり鑑賞することができて、あっという間に時間がたってしまった。
 5時にホテルに戻って、今度はホテルのオーナーの弟がシャルジャの国立博物館に車で連れていってくれた。博物館自体が華麗な建物で、展示物はイスラム教関係のものが多かったが、ここも入場者が誰もいない。みんな文化的なものは興味がないのかね。
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写真:ホテルオーナーの坊や(9番目)

 その後、オーナーの家に夕食を招待される。玄関の美しい木彫りの扉、リビングの金のソフア・セット、吹き抜けから下がる巨大なシャンデリア。成金趣味丸出しとはいえ、いろんなところにお金がかかっていることは確かだ。小学校を出ただけのパキスタン人オーナーは20歳そこそこでドバイに渡り、アラビア人の中で金転がしの術を学び、30代後半で今やホテル、不動産、中古車販売などの実業家となり、3人の妻を持っている。しかしこの世界的不況で、ドバイに投資した外国人はどんどん引き上げてしまい、資源が何もない(オイルもないそうだ)ドバイは、今大変な危機に陥っているというが、一度身に付いた贅沢をはぎ取ることはたやすいことではないはずで、一体こういった人たちはどうなるのだろう。


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