カラーシャの谷・晶子便り

パキスタン北西辺境州の谷に住むカラーシャ族と暮らすわだ晶子の現地報告。

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ツーリストがぼちぼち村に

2009年8月30日
 アメリカの強い後押しによるパキスタン軍のスワットとディール地方でのタリバン掃討作戦がようやく功を奏したのか、ディールを通ってラワリ峠からチトラールに入る陸路も一般の車が通れるようになり、シーズン中もずっと閑古鳥が鳴きっぱなしだった、うちの村のサイフラー・ゲストハウスにもちらほらバックパッカーが訪れるようになった。
 今、ゲストハウスには3人の外国人旅行者が滞在している。日本人女性のHさんは大学生で、おととし夏休みにフンザとルンブール谷に来て、ここを気に入り、去年も今年の夏休みもインド旅行の後、パキスタンではルンブール谷だけをめざして来ているという。もう一人の日本人男性はコンピューター・プログラマーの仕事を止めて、フリーランスになる間の3ヶ月の休暇でアフガニスタン(主に北部)を旅行していたが、お金が底をついてきたので、カラーシャの谷にやってきたそうな。そしてもう一人の外国人、ヒッピー風の彼はパレスチナ人。13歳までパレスチナで育ち、両親とクェートに移り、その後十代後半からアメリカで暮らしていたらしいが、今はタイの北部の小さな町に住んでいるという。
 片言の日本語を話すので、日本にいたのかときくと、何と、別れた奥さんが日本人だったという。パレスチナ人の旅行者には初めて会ったが、彼はパレスチナ人というより自然と平和を愛する自由人という感じだ。国を離れてから長いからだろうが、こういうパレスチナ人もいるんだなと少し驚く。
 パレスチナのことで思い出した。今年の3月1日付けの佐賀新聞の「有明抄」欄に掲載された記事を転載させてもらいましょう。


                   ***
 先日久しぶりに里帰りした佐賀市出身の写真家わだアキコさんに、パキスタンやアフガニスタンの情勢を聞いた。わださんはパキスタンのルンブール谷で、子どもたちの教育促進や衛生的な生活環境改善、伝統文化や自然環境の保護に取り組んでいる◆「オバマ大統領がアフガンへの米兵増派を決めたんですが、現地のことが分かってられないのでは。戦闘で亡くなっているのは、ほとんどが一般の貧しい住民なんです。戦闘よりも援助が必要です。」タリバンとテロリストはイコールではないという◆話をききながら、作家の村上春樹さんがイスラエルの文学賞授賞式で行ったスピーチを思い出した。村上さんは、多くの人からイスラエルの授賞式に著書の不買運動を行う、と警告されたそうだ。」しかし、村上さんは行って自分の目で見て、授賞式で自分の思いを話すことを選んだ◆このスピーチが秀逸だった。オバマ大統領の演説より、はるかに深く感動的だった。「ここに高くそびえる壁と、壁にぶつかると壊れる卵がある」と切り出した。「私はいつでも卵の側に立つ。たとえ壁が正しくて卵がまちがっていても」と文学者としての自分の立ち位置を示した◆壁がイスラエルで卵がパレスチナ人の意味ではない。壁とは戦車やロケット弾など人間がつくったシステムで、本来はもろい殻に覆われた魂である卵を守るためにつくられたが、それが冷酷にシステマティックに殺しを行っているというのだ◆「壁と卵」は北朝鮮の拉致集団と拉致された日本人にも、アフガン戦闘と住民たちにも当てはまる。米兵増派の壁のために、用水路整備活動のペシャワール会員も帰国を余儀なくされている。私たちも壁側か卵側か常に自分に問いかけたい。(園田寛)
***
 小さいスペースの中に、うまく、するどくまとめてありました。さすが園田さん(高校の同級生)!

●新製品紹介
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「山羊のテーブルセンター」
クラフト支援隊(日本)の意見を取り入れて縫ってみました。

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「カラーシャ族のハンディクラフト」

うちの作業室(クラフトルーム)で新しく作った商品を抱えて、
5月末に2ヶ月間弱の滞在を終えて帰国した静江さんが、
下記のとおり、展示販売のブースを出します。
興味のある方はぜひ行ってみてください。

「カラーシャ族のハンディクラフト」
於:青山学院大学同窓祭
期日:2009年9月23日(祝日)
当日入場券:2200円(買物券500円と福引抽選券つき)
http://www.aogaku-doso.jp/event/56.html

様々な変化

09年8月13日

今回は長い文で、読み辛い上に、写真がまたアップロードできず、申し訳ないです。

 8月8日、手製のドーナッツ60個と、ビスケット、飴、赤ん坊の服などの土産を持って、今年初めてブンブレット谷のカラーシャ家族を訪問しに行った。私が一緒に暮らしていた20年前、新婚ほやほやだった次男のブトーは、今はブンブレットでバックパッカーの間で一番人気のゲストハウスを経営していて、運転手つきの自家用車(中古のぼろ車だが)まで持つ身分になり、私は彼が送ってよこしたその車でブンブレットに向かう。
 後の席にムスリム男性が4人乗ってきたが、彼らも運賃を払うだろうから、拒否はできない。途中そのうちの一人、サングラスをかけた男性が私を知っていて、けっこう上手な英語で話しかけてきた。一方的に私を知っている人間はこの辺りにたくさんいるので、私の方は知らなくても、「あ、そうですか」と適当に返事していたが、「僕のことを忘れたの?」と相手がサングラスをはずしてもしばらくは誰だかわからなかった。「3日前にオーストラリアから帰省してきたんだ」ときいて思い出した。
 ガイドをしていた彼は10年ほど前にオーストラリア女性と知り合い、結婚してオーストラリアに定住している、谷奥出身のヌーリスタン人だった。どうりで英語がうまいはずだ。メルボルンに住んでいて、タスマニアでまたガイドの仕事をしているという。10年前はガイドにありがちな馴れ馴れしい態度で嫌なヤツだと思っていたが、久しぶりに会うとそれほどでもない。奥さんとは離婚したときいていたが、「2人の子どもは大きくなり、上の子は学校に行っている」と嬉しそうに話していた。
 ブルーン村にいるブトーと3男シャーママッドディンの家族に会って、休憩して、対岸の夏の家に住んでいる長男ヌールシャヒディンと4男アシュラフィディンの家族のところに行こうと思っていたけれど、昼下がりの日差しの中を歩くのがかったるくなり、初日はブトーの家に泊まることにする。スワットやディールのタリバン掃討作戦のために、今年はチトラール地方には外国人ツーリストがほとんど来ない中、ブトーのゲストハウスにはそれでもベルギー人カップルとラホールからの客が滞在していた。
 ベルギー人カップルは教師で今年は夏休みにパキスタン北部だけをまわっているが、一昨年から昨年にかけて1年半、アジアを自転車でまわったという。元気でなかなか感じがいい。ラホールから来たマリック氏は、毎年夏にブトーのところに滞在していておなじみさんらしいが、私は初めて会った。彼はバックパッカーの間では有名な安宿、「リーガル・インターネット・イン」の経営者だ。話をしていて、ホテルを経営するビジネスマンとはタイプが違うと思ったら、やはり彼は以前はジャーナリストだったという。今のホテルも実は彼が創設した新聞社だったそうで、サイドビジネスとして、その片隅にコンピューターを置いて、インターネット・カフェを開いたら、連日、荷物を背負ったバックパッカーが「泊まる場所はないのか」と押し掛けてくるから、新聞社を別の場所に移して宿屋にしたと、そのいきさつをおもしろく話してくれた。
 マリック氏は映画の仕事にも関わっていて、昨年韓国のテレビクルーとカラーシャ谷に来たとき、私にもインタビューをしようとルンブールに行ったが、村の人々に「アキコは外の人間が嫌いで、怒るから無理だ」と言われて諦めたらしい。その代わりに葬式にぶつかって、いいショットを撮ったからよかったとか。

  ブトーの家族は夫婦と子ども6人、ママッディン夫婦と子ども2人、それに居候の高校生たち、車の運転手、ゲストハウスのツーリストたち、増築作業の大工さんたちと、いつも20人から30人の大所帯になるが、ブトーの奥さんとママッディンの奥さんだけで賄いをしているのは感心だ。彼女たちはその合間に畑の仕事もやっている。牛の世話はブトーの3女が手伝うが、その都度20ルピーを払わされるというのは感心しないが。

 翌朝、朝食の後にママッディンの奥さんと一緒に、対岸上流の夏の家に行く。あいにく、長男ヌールシャヒディンの奥さんは前日に生理になってこもり小屋に寝泊まりする身で、家のそばの畑に作業をしにきていたが、家には入れずちょっと残念。もう一つ残念なのは、冬の祭りに結婚したヌールシャヒディンの次男に祝い金を渡そうともってきたのに、彼も夏の放牧場に住みこんでいて会うことができなかった。祝い金は一人娘のナシブジャンに預け、くれぐれも父親に見せないよう念を押しておく。そうしないと、「ちょっと借りる」と持っていかれたまま、永久に戻って来ないことは目に見えている。
 家に行くと、子どもたちがインド映画のDVDを見ていた。朝の10時なのに。日曜日だからかもしれないが、何と言うことだ!と言いながら、ナシブジャンがいちいちストーリーを説明してくれるので、私もしばらく見るはめになったりして。
 アシュラフディンの奥さんとナスブジャンが用意してくれた、トマトと玉ねぎがたっぷり入ったオムレツとヨーグルト、小麦粉のカラーシャパンのランチをとって、昼寝してから、近くの親戚の家を訪問。
 ヌシャヒディンの従兄弟にあたる彼は、私がブンブレットに住んでいた頃はカラーシャだったが、その後ムスリムに改宗した。自分で大きい家を建て、ムスリムの奥さんをもらって4人の子どもがいる。広いベランダの前の庭には、りんごやアンズ、ぶどうの木が実をつけ、庭の隅には山羊がいて、その向こうには牛小屋が見える。石壁造りや大工仕事ができるので、必要な現金収入は入るし、自給できる畑も庭もあって一つの理想的な暮らしともいえるだろう。
 その彼が、「ムスリムは複数の妻をもてるんで、家の仕事を手伝ってもらうためにも、もう一人奥さんがほしいな」と冗談をいったので、「だめだよ。手伝うというよりも、またたくさん子どもができて、よけい大変になるよ。だいたい、子どもが増えたら、分けてやる土地もなくなっちゃうよ」と私が言うと、「土地は大丈夫。まだまだたくさんあるから」と余裕だ。ヌールシャヒディンの一族はみんな広い土地を持っていて豊かだなとつくづく思う。

 3日目、ナシブジャンを連れて、再びブトーの家に戻る途中、ヌールシャヒディンが新たにAKRSPの援助で始めたという「コンピューター教室」に寄ってみる。中古のコンピューターが4台ほど置いてあったが、建物は掘っ立て小屋で、床は土のまま、これじゃあ土埃でコンピューターがすぐ壊れそうだ。だいたい電気がルンブールに比べてはるかに不安定で弱く、電話線もない状態でコンピューター教室を始めること自体が無理な話だ。でも、今さら言ってもしょうがないんで、「早く電話線を引くよう頑張ってよ。そうしたら、私もインターネットしに来るから」と発破をかける。
 その教室のすぐ上のホテルを経営しているファイジが顔を出したので、昨年彼が催したガンダオ祭を撮影したDVDを渡す。そしたら、「コーヒーをごちそうする」というんで、ヌールシャヒディンとナシブジャンとでファイジのホテルへ。ベランダでコーヒーを飲みながら、「発電所のタービンと発電機を新しく取り替える」ことが早急の問題だと話しているところへ、ホテルの唯一の泊まり客が起きて来た。(午前10時半過ぎていたが)
 ひげと髪ぼうぼうの木こりのようなこのアメリカ人は、去年も長く滞在していて、今年はホテルへ「冷蔵庫」のみやげを持ってやってきたという。舌を巻きに卷く典型的なアメリカ西部のアクセントの英語で、最初は「クール」を連発しながら(例えば、ヌールシャヒディンがこれは僕の娘だと紹介すると、「クール」。私が20年カラーシャ谷に住んでいるというと、「クール」という具合)、その後は、彼が何かこちらで援助活動をしたい、援助金を集めるのは難しくない、しかし、コンテナ(援助物資の?)がカラチに着くのが問題だ、てなことを、ねばりのある大声でまくしたてる。こちらが話に入っていく隙も与えない勢いの中、やっと私が、ちょうど水力発電の話をしていたばかりだったので、「何をやるにしても、まず安定した電気の供給が必要だ」と言うと、「確かにそうだ。それにはダムを造らねばならない」と言うのだ。「ダムなんか造れば環境破壊になるし、だいたい、ここの土地はそれぞれ所有者がいるんで、無理だ」と私。ひげの彼は、「そんなたいしたことない。ちょっと移動させて新しく土地を与えればいい」「そんな土地がどこにあるの?」と私が少し反論しても何のそので、ああだこうだまくしたてる。「あー、こりゃだめだ。私とまったく考え方の違う人間と話しても、時間の無駄だ」と気が付いたが、勝手な話がわんわん続いていく。ナシブジャンはすでに席を立ってしまったが、私に向かって話続けているんで、なかなか腰を上げるきっかけをつかめず、往生した。後でナシブジャンが、「あの人の話声をきいてたら、頭がぐらぐらしてきて、座ってられなかった」と言っていた。
 
 それやこれで、久しぶりにカラーシャの家族に会い、村の人たちに会い、新しい人たちにも会って、ブンブレット行きはなかなかおもしろかった。

蓋を開けてみれば

09年8月6日
 1週間後、ランチの後にワークショップを開くというんで、午前中ジャムシェールにホールをきれいに掃除してもらい、M女史は私以上に膝や腰が悪いんで、うちのつぎはぎの椅子では大変だろうと、サイフラーさんのゲストハウスからちゃんとした肘つきの椅子を借りてきて、準備万端にしていたが、なかなか現れず、2時過ぎてやってきた。
 先週も来ていたビリールのおばさん2人、ジャムシェイ、ボンボレットのA・カリック、ルンブールのダウード、ヤシールが有給のトレーナーたち、その他休暇で村にいる軍隊の青年、グリスタンがボランティアで参加。彼らがホールに入るときには、「石の上で靴を脱いで」と口やかましく言って、彼らもちゃんとその通りにしてくれたが、最後に入ってきたM女史は、ずっしり重くて底に土がいっぱいついているトレッキング靴で、すたこらホールの中まで入ってくるではないか。「あっ、靴を脱ぐんだけど」驚く我々を全く無視して、「私は靴は脱げない」と宣言。ジャムシェールが「また掃除するから、いいです。どうぞ、どうぞ」と言うから、それで治まる。
 トレーナーに抜擢された人は「英語がわかる人」ということだったが、M女史自ら選んで連れてきたビリールのおばさんたちは英語がわからないので、A・カリックやヤシール、時々私がM女史が言ったことをカラーシャ語に訳すことになる。
 ジャムシェールが立たされ、彼女のNGOが作ったポスターを開いて掲げるよういわれる。
1枚目のポスターは、「ばい菌は目に見えない」というもので、男性が顕微鏡をのぞいているイラストが描いてある。しかし、顕微鏡という存在を知らないカラーシャがこの絵をみて、何を理解できるというんだろう。私はM女史に率直に、「カラーシャはこの絵では理解できないと思う。実物の顕微鏡を持ってきて、実際にばい菌を見せるのが一番わかり易い。」と言ってみた。
怒るかと思ったM女史は、「それはいいアイデアね。誰か顕微鏡を援助してくれればいいけど」と同意した。
 このプロジェクトはカラーシャを対象にしたものだということだが、他のポスターも、絵の人物が都会の人あるいは外国人っぽいもので、描かれている家具などもカラーシャにないものだから、カラーシャの想像力では絵を読み取れないと思う。作る前に私に事前に相談してくればよかたのにと心の中で思う。
 第1回目だからあまり深く説明しても混乱するからと、M女史は「清潔にすること」「健康を保こと」ことの大切さを話すが、ビリール女性が「タオルは各自別々に白と言われても、カラーシャでは一家に1枚しかタオルがない。どうすればいい?」と質問したときなど、きちんとした答えがなく、先送りされてしまったのは問題だと思う。せっかく問題提起されたのだから、参加者たちみんなに考えてもらって、何らかの解決策を打ち出すべきだ。
 もう一つ問題なのは、M女史はカラーシャのための援助活動をしているといっても、オフィス兼自宅はペシャワールにあって、カラーシャ谷には月に数日しか滞在しないので、様子がよく把握できず、人選が非常に偏っていることだ。
 今回のプロジェクトにしても、村のみんなに伝える役目のトレーナーたちは、彼女が連れてきたビリール女性2人、ムスリム男性1人、ルンブール谷ではヤシール(男性)、ダウード(男性)、ジャムシェイ(女性)ともう1人の女性(欠席)の7人。ムンムレットのA・カリック(男性)はこのプロジェクト期間は彼女のNGOの臨時職員として月給を払っているという。
 ルンブール谷の女性トレーナー2人といっても、実は昨年暮れにビリールから嫁にきていて、M女史が連れてきたビリールの女性の家族ということだ。しかも、嫁にきてるといっても、彼女たちはチトラールのカレッジで勉学中なので、ほとんどルンブールにいない。ルンブールにいなくてどうやって村人に話を広めていけるだろうか。
 その上、これらトレーナーの賃金は1ヶ月3000ルピーも支払われるということだ。うちの唯一の有給スタッフのジャムシェールの基本給と同じ額だ。ジャムシェールは葬式や特別の用事がない限り、毎日朝7時から午後4時まで(ランチ休憩2時間)働いて(拘束されて)いるのに、M女史のトレーナーは一回1時間半で月に2回だけのM女史の講義を受けるだけで(後に、村人に話を広める仕事があるだろうが)、同じ額というのはあまりにも不公平だ。
 しかもだ、月に3000ルピーもらうジャムシェイは、先月ムンムレットのギリシャNGOからも3万ルピーの援助金をもらったばかりの上に、彼女の夫はチトラール兵で11000ルピーの月給、義父は学校用務員で月給11000ルピー、義兄嫁も保健指導員として月給6000ルピーを受け取る、現金収入のないカラーシャの中では村一番の金持ちの家なのだ。
 チトラールに住んでカレッジに通う、村人への指導力もない学生の彼女を抜擢するより、もう少し年齢のいった説得力のある村の女性がたくさんいるのに、M女史の人選には疑問を持ってしまう。
 今回、直接、M女史のプロジェクトに関わって、気づいたことを書いてみたが、彼女だけを特別に非難しているわけでないことを了承してもらいたいです。残念という気持ちは多いにあるけれど、パキスタンのたいていのNGOの活動内容がこのようなものといいう現実をお伝えしたかったのです。

木製の人形
 8月初めにイギリスからのツアー客5人がサイフラー・ゲストハウスに3泊するというんで、新しく人形を作ってみた。グリスタンとルビザールにも服と頭飾りを作ってもらって、まあまあの出来だと思ったが、今回は売れなかった。そのうち人形好きの人が買ってくれるかな。
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写真:新製品の人形たち

これはなーに?

09年8月6日
 カラーシャの谷でボランティア的活動を行っている外国人は、私だけでない。もちろん多目的ホール&作業室の建設とその活動をサポートしてくれている静江さんもだけど、隣のブンブレット谷ではギリシャ人のNGOが学校建築に、バシャリ(生理・出産時期のこもり家)、水道タンク設備、総合文化施設など、大規模に行き過ぎるほどの援助活動を行っているし、ビリール谷ではイギリス人M女史が堤防やバシャリ、その他の活動を繰り広げている。
 そのM女史は20年前からの顔見知りだけど、彼女はカラーシャ谷に住む外国人が嫌いだったので、私はずっと彼女から無視されていたが、ここ数年はエレクション・ビビ(注1)のことや犬のことで話をするようになり(彼女は根っからの犬好きで、ビリール谷やペシャワールで計8匹の犬を飼っている)、さらにM女史が私の友人ファウジアに一目置くようになってからはメール交換などして、割合い近しく接するようになった。
 彼女は私と違って、パキスタンの政府高官たちや外国大使館からの、援助プロジェクトを立ち上げるのが上手で(NGOをやっているのだから、必要な部分ではあろう。)、これまでにもたくさんのプロジェクトを手がけている(予算のわりに内容が乏しいものが多いが、エレクション・ビビのNGOに比べればましな方か)。
 先々週、M女史がHIV/AIDSのワークショプをルンブールで開くために、サイフラー・ゲストハウスにやってきた際、私も呼ばれた。呼ぶとすぐに行かないと機嫌が悪くなるモーリンだが、私はちょうど、大工さんたちに昼食のタシーリ(カラーシャの主食)を焼いていたので、手が離せず、大工さんたちに昼食を出し、私も昼食を食べてから、モーリンのもとに行く。慌てていくことはなくて、彼女は連れてきたビリール谷のカラーシャ女性3人、ムスリム改宗男性一人そしてチトラール人のドライバー兼アシスタントと昼食中だった。
 ビリールの人たちを連れて来ているところをみると、これからワークショップを始めるのだろう。きいてみると、「ビリールでやった時は、みんな静かに話をきいてくれ、成功した」らしいが、ルンブールではどういう風にやったらいいか、まだはっきり決めていないという。
 ビリールでの成果を見せようと、うちの村の女性と地面に座り込んでよもやま話をしていたビリール女性3人を呼んで、横の椅子に座らせて、「HIV感染は3通りあるけど、何だった?」と英語の多いカラーシャ語でM女史が質問すると、「手を洗う。そうじをする。・・・」と、雀の学校の生徒みたくにピーチクパーチク(あるいはバカの一つ覚えみたくに?)、ビリール女性の一人が即座に答えるのをさえぎって、「違う。それじゃない。先日話したことよ」とM女史は怒る。
 「ほら、このイラストを見なさい」とM女史はビリール女性に1枚のラミネート張りの紙を渡す。それはさっき私ももらったもので、「個々に注意をうながす安全対策プロジェクト」とタイトルされ、スポンサーであるフィンランド政府と彼女のNGOの名が入った、両面それぞれ6コマのイラストが描かれていた。「使用済みの注射器を使わないように」喚起するイラストが一面と裏の半分9コマ描かれ、その残りの3コマが、「男女がベッドの端に座って手をつないで向かい合っている図」「男性の背広が脱ぎ置かれ、男女は座ったまま抱き合っている。その横に拡大コンドームが描かれている図」「男性がトイレで中腰になり、片手にコンドームを持って、片手でズボンのジッパーを降ろそうとしている図」である。いわゆる性交渉でHIVに感染しないための対策を図にしたものである。私は最初これを見た時、確かに妙にまじめな図ではあるが、率直すぎて笑ってしまった。(M女史も笑っていた。)
 ビリールの女性おばさんもやっぱり、注射器のイラストよりも、男女がベッドで向かい合っている方が興味があるようで、しばらくじっとそのイラストを見ていた。そして、「これはなーに?」と私にきいてきた。私が「それは、夫婦や恋人が一緒に寝る時にはね。」と説明をしようとすると、「いや、この女の口から出ているもんはなんだね」「えっ?」「ほら、」と彼女が指で示したのは、イラストの女性の後に、一本の線で描かれたベッドの頭の部分(頭や枕が落ちないようにベッドに垂直に張ってある木の部分。日本語でなんというか出て来ない。)だった。ビリールのおばさんは、イラストの女性が話している口のわきからベッドの線が伸びているので、口の中から何か出ていると思ったようだ。「これは、口から出てるんじゃなくて、ベッドの木だよ。」と説明したけど、おばさんは「ふうん」と今一理解できない顔をしていた。
 読み書きができない人たちのために、わかりやすいようにイラストで描いても、イラストを読む力がこういう風だ。しかもこのビリールのおばさんは一応M女史
に「理解がはやい」から選ばれて連れてこられたわけでだろうに。ふうむ、なかなか前途多難なようだ。
 HIV/AIDSのワークショップは結局、その日は行われなかった。場所の問題もあるようだ。そこで、私は「多目的ホールを使えばいい」と申し出た。HIV/AIDSのことはできるだけ早く、カラーシャの人たちに伝えた方がいいわけだから、ここは協力すべきだろう。一週間後に第1回目のワークショップを開くという。M女史の予定では冬の前までに月2回開くということだ。場所の使用料はもちろん無料で、私もボランティアとして協力することにした。さて、第1回目のワークショップ、どうなることやら。

(注)ルンブール谷出身のカラーシャだったが、10代の頃にペシャワールの高官にみそめられて、都会で生活しながら、カラーシャ人不在のNGOを立ち上げ(らされて)、メディアに「カラーシャに尽力する女性」と大嘘の宣伝をし、莫大な予算の、しかも不要な建築プロジェクトによって、その大半の援助金を着服する、なかなかしたたかな30代の女性。最近、彼女のNGOパートナーのムスリム男性との間に子どもが生まれているときく。
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写真:問題のイラスト
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