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カラーシャの谷・晶子便り

パキスタン北西辺境州の谷に住むカラーシャ族と暮らすわだ晶子の現地報告。

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新しい人々に会う

4月25日(月)
 3年前の帰国中に、「カラーシャ谷でいろいろ記録するのに、デジタル・ビデオがあったらよかろう?」と弟から言われ、「そりゃあ、よかろうね。」と言ったら、当時けっこうな値段だったモニター画面が一番大きかったソニーのハンディカムを買ってくれた。弟はそういう形で私の活動に協力してくれたのだろう。私はビデオを使ったことがなかったので、ビデオのことはあまり実感がわかなかったが、そのハンディカムで静止画、つまりデジタル写真が撮れることが嬉しかった。
それまで普通のカメラでフィルムを使って撮影していたが、現像はペシャワールに行く時までできず、スライドの場合はペシャワールからさらにカラチに送るので1週間かかる。撮ったはしから画像を確認できるデジタル写真は、私の環境からするとものずごくよろしい。本格的な写真は無理だけど。
 写真は撮影しただけでは、つまらない。今でも私は自分で現像するモノクロ写真が好きだが(もう20年ご無沙汰している。)、像がじわじわ印画紙に浮かび上がってくる時に味わう興奮と、うまく撮れていた時の満足感、あれが何とも言えずよろしいのだ。カラーシャ谷でスライド写真を撮っても、下手すると半年後ぐらいに、自分で何を撮ったのかわからなくなった状態で現像に出すとそういう味わいはなくなる。逆に撮ったのを忘れていて、意外といい写真があるった時はうれしいけどね。
 そういうわけでデジタル・ビデオを喜んだのだが、そうすると、撮ったデジタル写真をパソコンで保存しなければ意味がないと弟が言い、ついでだからと、使ってない小型ノートパソコン(私はへそ曲がりのチビ・バイオと呼んでる)をくれた。
 水道も家に来てない、不安定な電気が夜だけ来るという生活をしている私は、デジタル・ビデオ・カメラとパソコンの二つの文明の利器をを同時に持つはめになり、使い方もわからないまま、こちらの住処に戻ってきてしまった。あれ以来、それまでの谷での私の平和な生活はことごとく壊されてしまった。とまではいかないが、どれだけ翻弄されたことか。特にチビ・バイオの方は、毎回毎回問題が起きる。基本を知っていればたいしたことはないのだろうが、周りに訊く人のいない状況の中で、私は半パニックになる。私なりにいろいろ試みてはみているものの、いつも時間の無駄だったことが多い。早い話、チビ・バイオは今でもワープロ機能以下しか使いこなせない。チビ・バイオが古いウィンドウズ98だというのも問題の一つらしいが、何かかんか言ってもどうにか動いているので捨てるのは嫌だし、買いかえるお金もない。
 今回も、パキスタンに戻る間際に(またまた弟から)選別に買ってもらったUSBドライブが、パキスタンでいざ使おうとしたら読み込まないのだ。(後でウィンドウズ98だからとわかったが。)その他にEメールを送信するのに便利なアウトルックもおかしくなっているので、去年の冬ファウジアの家で会った、海外青年協力隊で女性開発省下の学校でコンピューターを教えている藤井ふみさんに、藁わもすがる気持で電話したら、月曜日に仕事が引けてからということで、雨の中を
駆け付けていただいた。
 パキスタンでは、まずもってインターネットに接続するのにも時間がかかるし、いちいちがスローなので、忍耐の人にならねばならない。藤井さんはインターネットからUSBドライバーのウェブからダウンロードを試みたのだが、私の持っている機種の名前がなくて、それに似たのをいろいろとダウンロードしてもだめだった。アウトルックは設定し直してもらって、インターネットカードを使ってもできるようになった。
 その後藤井さんと話をする。実家が広島にあるという藤井さんは、コンピューター教師の仕事が終わってから、別なボランティア活動、広島と長崎に原爆が落されて今年で60年ということで、「原爆の恐ろしさをパキスタンの人たちに知らせる」活動を隊員仲間3人で始めている。今や核を持つ国となったパキスタンの人々の大半は、核兵器は強いものの象徴であると自慢こそすれ、核がいかに恐ろしいものかをわかっていない。原爆を体験した日本はもっと声を大にして、世界が核を持たないように説得するのが使命なはずなのに、日本人自体も忘れかけようとしている。核を持ちながらの平和などあり得ないと私も思う。
 藤井さんたちの活動は大きいものではない。来月から付近の学校を訪問して、広島市から借りたアニメのビデオの上映とポスター展示するというだけのものだ。そして8月6日には「原爆の日」というイベントをやり、普通のパキスタンの人に来てもらいたいという。藤井さんの話をきいて、私はすぐにICLCを思い出した。代表者の田島伸二さんも広島出身で、核のない平和を願う方だ。そのメッセージを込めた「亀のガウディ」の物語は田島さんの最高傑作の一つだ。ICLCP(ICLCパキスタン)にも協力をお願いしようと思う。

4月26日(火)
 日パ旅行社に顔を出してから、メロディ・マーケットでうちらのNGOのパンフレットの両面コピーを30部とって、アッパラに小包用の布とシャワールのゴムの買い物。そしてミュージック・テープ屋で、国立の「駆けこみ亭」というお酒の量も多く、料理もおいしくて、なごめる飲み屋さんで感動して買った、戦争は嫌だのメッセージがこもったCD「世界のお母さん」(by 国分寺エクスペリアンス)をカセットテープにコピーしてもらう。私の住処にはCDデッキがないのでCDの方は不用だから、藤井さんにあげて「原爆の日」のバックグラウンド・ミュージックの一つとして使ってもらおう。

4月27日(水)
ほんとうはファウジアから個展の作品をスライドで撮影するよう頼まれているので、早いところやってしまいたかったが、1日中雨だったのでやれず。外にも出ずに、あっという間に時間が経つ。しかし寒いよ。この時期のイスラマバードにしては信じられない。チトラールはもっと寒いだろうな。

4月28日(木)
 パキスタン人のご主人を持ち、環境保護運動家で、イスラマバード開発局の顧問でもあるドイツ人のヘルガさんから、「パンジャビ語がぺらぺらというだけでなく、とても人柄が良いJICAの方が、あなたの活動に興味をもってらしゃるので、ぜひ会ってみなさい。」と半ば強制的(?)に言われたので、今朝ご本人である平島さんに電話をしてから、JICAのオフィスに面会に行った。
 後で名刺をじっくり見て知ったのだが、平島さんは明治学院大学の教授で、今はJICAのイスラマバード・オフィスでプロジェクト・フォーミュレーション・アドバイザーとして働いておられる。平島さんは私としばらく話をされた後に、アフガニスタンのJICAの専門家のお二人の方が、健康チェックで一時帰国をされる途中に寄られているので、お二人と私と別々に2ヶ所で話をするのは無理なので、一緒にどうぞということになった。
 アフガンJICAのお二人は農業指導をされている柴田さんと、教育分野の援助に関わっておられる渡辺さん。柴田さんが平島さんと報告について話を始められたので、私は渡辺さんにカラーシャの谷での活動のファイルを見せながら話をしていた。
 すると渡辺さんが、「おや、この田島という人はひょっとしてユネスコにいた人ですか?」と、私のファイルの中で田島さんの名前を見つけておっしゃった。聞いて見ると、「自分が田島を引き抜いて、パキスタンに赴任させた。その後音沙汰がないので、心配していた」方だとわかり、私は喜んで田島さんのパキスタン時代から最近までの活躍を伝えた。
 本間さんのお友達のバングラデッシュのカビールさんのことと言え(先週遭遇した話)、田島さんのことと言え、世の中は広いようで狭くて驚いてしまう。

 その後、両替屋で美穂子基金のお金も含めてルピーに両替して、私の写真集を預けてあるUNDPへ。当人のファヤース氏は出張でおらず、1冊売れた代金と残りの9冊を返してもらう話だったが、1冊が国連スタッフ・ニューズレターに載せた時に見本として貸したままになっているという。すぐに国連の連絡通信担当官の女性が来て、預かったのはすでにファヤーズに返したという。どうも行方不明になったようだ。10冊全部売ってもらったのなら、1冊はあきらめても仕方がないかもしれまいが、1冊売ってもらって、2冊を贈呈するわけにはいかない。
 連絡通信担当官の女性が、「それにしても残った写真集はどうするの?」と訊く。「仕方がないからチトラールに送ります。」と言うと、「アメリカン・クラブや国連センターに置いてもらえば、あなた、絶対売れるわよ。」と言い、すぐにアメリカン・クラブの担当者に電話をしてくれた。しかし相手につながらず、彼女自身も今立て込んでる最中だというので、明日出直すことにする。

 帰宅するとすぐに、協力隊の藤井ふみさんがまたしてもチビ・バイオのUBSドライブのインストールのために来てくれた。そしたら、インストールをやる前にまずインターネットがつながらず、あきらめる。その後藤井さんも一緒に、ICLCPのショーカットさんとクラムさんに会った。新しくメンバーになったタヒール・マクスードさんというキャノンのコピー機の仕事をしている方にも紹介され、今はブルーエリアにある彼の事務所がICLCPの仮事務所になっていた。しかし実際のコンピューター教室などの活動は今はお休みということだ。
 ショーカットさんはイスラマバードの端、ラワルピンディと向かい合うあたりに、識字教育の一環として開く、子供コンピューター教室の場所を探しているという。場所が決まったら、藤井さんもボランティアで教えたいと言う。
 また、藤井さんの「原爆の恐ろしさを伝える」活動にも、ショーカットさんたちは協力を約束した。ファウジアも藤井さんたちが学校を巡回する時に一緒に行くと言っている。藤井さんは協力してくれる人たちが増えて心強いと喜んでいる。

4月29日(金)
 このブログ便りを早朝から10時まで打って、その後、昨日約束した国連の連絡通信担当官のオフィスへ行く。彼女の名はアメラ。パキスタン人両親からクエートで生まれ、小さい頃に家族とカナダに移住して、カナダ人として育ったという。顔はパキスタン人と言えるが、茶髪にシャツとパンツという恰好だし、話し方や雰囲気は北米人だ。昨日会ったばかりのアメラは、私の写真集をアメリカン・クラブとUNセンターに置いてもらうために、なかなかつかまらないアメリカン・クラブの担当者に何度も何度も電話し、そして写真集のことを紹介するレター、私のバックグラウンドと写真集はチャリティに使われるということも明記して、を作成してくれた。このレターを国連スタッフに廻してくれるそうだ。写真集が欲しい場合はアメリカン・クラブかUNセンターで買うように言ってある。3時間もかかってここまでやってくれた彼女に感謝。
 ペシャワールで勉強しているカラーシャ家族のムサシ・ディンに電話するが、そうでなくとも超特急に早口のムサシの声が電話口で割れて、何て言っているのかほとんどわからなかった。別な公衆電話でチトラールのマウンテンインに電話する。マネージャーは数日前にルンブールの人たちがチトラールに来ていて、私のことを訊いていたという。大使館からも私宛てに電話があったという。プロジェクトのことだろうと、さっそく大使館の担当官に電話を入れたら、田中大使が7月に私たちのところを訪問なさりたいということ。


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