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カラーシャの谷・晶子便り

パキスタン北西辺境州の谷に住むカラーシャ族と暮らすわだ晶子の現地報告。

バラングル村に帰る/ジョシ祭


5月11日(水)
 静江さんとムサシ、そしてペシャワールの空港で会ったという同行のフランス人旅行者は、午後3時に予定より3時間ほど遅れて到着。ディールでランド・クルーザーの乗客がいっぱいになるまでさんざん待たされた後やっと出発したら、ランド・クルーザーが故障して、代わりの車を待って乗り換えたりしたので遅れたらしい。ラワリ峠のディール側は道が悪くて、途中ブルドーザーにロープを付けて引っ張ってもらわなけえればならなかったらしいが、数メートルにも立ちそびえる峠の雪の壁や、辺りの景色が感動的だったので、飛行機を逃しても惜しくはなかったと静江さんたちは言う。
 チトラールでやる用事もあるので、今晩も一泊。

5月12日(木)
 拙著「カラーシャーその生活と伝統」は出版にあったっての諸経費の元も取れていない状態だが、取りあえずの売上げの利益は「多目的ホール&仕事部屋」建設の資金と我々の活動資金に当てられる。従って、なるべくたくさんの写真集を売らねばならない。手持ちの在庫が少ないので、さらに写真集を20冊出版社に注文するのに、銀行で小切手を作って宅急便で送る。
 静江さんから今年も多目的ホール&仕事部屋建設の追加援助金千ドルをいただく。仕事の段取りが悪くて、出費ばかりかさませる現場責任者のジャマットに発破をかけるために、日本からわざわざ現場まで足を運んでもらっているだけでも感謝しているのに、さらに追加資金の援助までしていただき恐縮する。
 昨日、バンダラ氏の秘書からの手紙を受け取り、カラーシャの全家庭に渡す政府の支援金についての返事を、昨夜と今朝にEメールで出そうとしているのだが、うまくつながらない。コンピューター技師のタイフール氏の所に行くと、うまい具合に本人がいて(普通は留守が多い)見てくれる。メール・アカウントが今朝切れてしまったからだという。(でも昨夜だめだったのはどうしてだろう?)アカウントの更新手続きをして、ホテルに戻るが、やはりつながらない。結局つながったのは、午後3時近く。送信するのに1分。静江さんがチャーターしたジープに乗って、一路ルンブールへ。今回はチトラールから何と1時間半でバラングル村に着いてしまった。昔は3時間かかっていたのに、道幅が少し広くなったからだろうか?
 久しぶりのバラングル村は、相変わらずといえば相変わらずで、どこもかしこもビニールや紙くず、木屑のごみだらけで汚い。人々の顔や手も薄汚れていて、顔と手に挨拶のキスをするのも躊躇したくなるほどだ。もちろん挨拶をしないわけにもいかないのでするけどね。
 今年の冬は最悪で、雪もとてつもなくたくさん降り、毎日雪かきしなければならないだけでなく、各家雨漏りもひどく、家の中もびちゃびちゃ、大変なんてものではなかったと皆口を揃えて言う。明日から春祭りジョシが始まる。

5月13日(金)
 ジョシの祭りのために、昨日子供たちが集めてきたビーシャの花やクルミの若葉を、夜明けにジェシタク神殿や家々の戸口に飾る行事があったが、太鼓が濡れていたために、太鼓が登場せず、従って神殿に花を飾った後に、広場で若者や子供たちが歌や踊りを楽しむ場面はなかった。
 昼間、グロム村のマハンデオの下のシンモーで、少年が浄めの儀礼をし、その後、踊り場グリウで太鼓と共に、短い歌と踊りが7回子供たちによって行われる。

5月14日(土)
 今日はチュジャック・ジョシ(小ジョシ)。カラーシャ服を着て、髪もおさげを4本編んで(本来のカラーシャの髪型は前髪もおさげをするので5本)、ようやくカラーシャの里に帰った気がする。昨日から、村人たちに、祭りにむけて村をきれいに掃除するように言っているが、「この前掃除したばかり」と言って、みんな知らんふり。「この状態じゃ、カラーシャはやっぱり汚いと、外から来た人たちに笑われる」と、ヤシールを説得して、ようやくヤシールと子供たち数人が村の広場の掃除を始める。店が村の中にできてから、店の周りにお菓子のビニール袋が散らかるようになり、せっかくゴミ箱が設置されても、子供たちに使うように大人が教えないから、あまり役に立っていない。
 人々は家でヨーグルト状のミルクとタシーリの食事を取った後、グロムの踊り場に行って、1日中歌や踊りを楽しむ。午後2時に支援金の小切手を手渡しにバンダラ氏が来訪されるので、ルンブール谷の責任者の一人である私は、踊り場に行く暇もなく、氏とお客さまの到着を待つ。
 予定より遅れて、マイノリティ代表国会議員バンダラ氏、政府のマイノリティ担当秘書、英国ハイ・コミッショナー夫人他一行が到着される。バンダラ氏たちはすぐに支援金の小切手の支給に入り、私はコミッショナー夫人など三人のご婦人方の接待。
 ところが、ルンブール谷の全130世帯に小切手が配られるという話が、実はバンダラ氏の秘書のミスで(だろう)、89世帯にしか今回は支給されないことが判明。もらえない人の分は2ヶ月後に支給されるということだが、やはり、今回もらえない者は心穏やかであるはずがなく、当然のことながら一騒ぎ起こる。せっかくの祭りの日なのに、後味が悪かった。

5月15日(日)
 今日はゴナ・ジョシ(大ジョシ)。午後からはセレモニアスな歌や踊りが行われるので、これにはぜひ参加せねばならない。今年になって、チトラールのRCDPCの援助により、踊り場まで登る道に木枠の階段ができていて、もちろん前よりも登り下りが楽になったが、でも途中で階段が途切れていたのには興ざめ。どうして最後まできちんと仕事をしないのだろうか。 
 イスラマバードから国連で働く外国人スタッフやその家族が遊びに来ていて、その一行みんな私の名前を知っていた。先日の国連情報担当官アメラが、私の写真集の再紹介のレターを廻してくれたのが功を奏しているようだ。一行のうちの一人の女性からは、「あなたはワダさんですか?私はマチコ・ハチヤの友達です。」と声をかけられ、びっくりした。きけば、彼女は私の高校時代からの仲間でルンブールにも遊びに来たことのある八谷まち子の、昔の職場の同僚だった方の奥さんだった。私もご主人にはイスラマバードで会ったことがあり、日本びいきのフランス人の奥さんのこともマッチやアメラからきいていたので、なんだか初めて会った気がしなかった。
 私はデジタル・ビデオ・カメラを持っていたし、足が痛いのを理由に、結局踊りにはまじめに参加しなかったので、少しつまらなかったが(祭りは参加しなければおもしろくない。)、今年はいつもよりパキスタン人ツーリストが少なくて、こじんまりしていて、そういう意味ではよかった。唯一、ボンボレットに壮大な建物「カラーシャ・ドゥーラ(カラーシャの家)」を建築中のギリシャ人たちが率いてきたギリシャ放送局のカメラマンが、こちらがビデオを撮っている目の前に、大きい業務用カメラを立ちはだからせて、ずい分迷惑した。マハンデオの祭壇での儀礼の時も、そのカメラマンは儀礼を妨害するような行動をとり、長老たちに顰蹙をかっていたという。
 そのテレビ局の女性記者に、カラーシャ谷のツーリズムや将来についてインタビューを受けるはめになる。テレビに顔が出るのは大嫌いだが、断るとギリシャ人ワーカーたちが気を悪くするだろうし、この際、私の意見を言うのも悪くはないだろうということで応じる。つまりツーリズムはあっていいが、それで利益を受けているのは、ホテルの経営者やジープの運転手、店屋など周囲の回教徒ばかりだ。カラーシャは、ツーリズムに頼らないですむような小規模の地元産業を起こすことの方が重要。そしてそのためには若い層の教育が最優先であるということを話す。

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写真:大ジョシ祭の日、谷の上流と下流に別れて、女たちは横並びにステップを踏み、列の長さ(女の数の多さ)を競う踊りで多いに盛りあがる。

5月16日(月)
 今日はボンボレットの大ジョシだ。うちの谷の若い人たちは昨夕、ジープ3台でボンボレットに出かけて行った。それと別に、バトリックでお年寄りが昨日亡くなったが、ジョシの最中だったので、遺体を家の中に置いて戸を閉め、祭りが終わるまでそのままにして、祭りが終わりしだい葬式があるというので、バトリック出身の義理の伯母も村の長老格女性と一緒にボンボレットに行ってしまう。

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