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カラーシャの谷・晶子便り

パキスタン北西辺境州の谷に住むカラーシャ族と暮らすわだ晶子の現地報告。

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ルンブール谷に戻って

2006年5月26日

  5月5日に日本を出てから、バンコク2泊、ラホール2泊、イスラマバードのファウジアの家に3泊した後、ホテルに1泊。5月13日朝ルンブール谷に陸路で直行するために出発。マラカンド峠や諸々の場所での道路工事が多くて、ディールには遅れて夜8時半頃到着。5月14日の早朝にディールを出発、昼前にラワリ峠を越えて、ドローシに午後1時に着き、そこでランチの後に車を乗り換えて、まっすぐルンブール谷に午後の遅い時間に到着。10日間、ずっと移動で、荷物をほどいたり詰めたり、相変わらず調子の良くない股関節をかばいながら、ようやく自分の場所にたどり着いたという感じだ。
 この冬に住みかをジャマットの隣の部屋から、新しく建ったばかりの仕事部屋(多目的ホールに隣接する部屋)に移していたが、ビニール・シートを全面に被せていて雨漏りしないはずの屋根に、(ジャマットが雇った)ロバが雪解け後に歩いたために、ビニールが破れて、雪解け水が多目的ホールと仕事場両方にかなりの量漏ったらしく、戸を開けたら、むっとするほどの湿気で蒸し暑くて、ほとんどの物は湿っていてカビだらけ。アルミの長持ちに入れていたフィルムが無事かどうか心配。天窓を開けて風通しをよくすると、80度あった湿度が65度に下がり、翌日には温度22度、湿度50度になり少し安心する。
20060619142323.jpg

写真:カビだらけになったシャラービラヤック(小麦粉で作った山羊と犬)
 しかし、そうでなくとも前の部屋から引っ越したばかりで荷物の整理ができてないところに、ジャムシェールとヤシールが濡れた荷物を水漏れしない場所に移したり、濡れた物を広げてくれたりしていて、部屋の中は大混乱。敷いていた敷物を取って、セメント床を水で流しながら掃き掃除をして少しすっきりした.。
 5月15日の春祭りの最終日(大ジョシ祭)は、股関節も調子悪いし、踊りの佳境に入るのは3時すぎなので、それに合わせて踊り場へ。年々観光客やイスラム教徒の見物人は増えても、地元カラーシャの参加者は減るばかりでさみしい気持になってしまう。それでも、ガッチ(カラーシャを称え、子孫繁栄を祈る秘密の歌を祭礼の長老が大きなクルミの枝を振りながら歌う)が終わって、男たちがマハンデオで祭礼を行う間、女たちが大ジョシの時だけに繰り広げる踊り、ダギナイやミウマウ婆さん、シャンガーヤックは十分楽しむことができた。

 村での私の活動を中心としたドキュメンタリー番組制作で撮影に来ていたK氏とW氏のうち、カメラのW氏が日差しの強い中で動きまわった上に、連日の移動で疲れもたまったのか下痢と高熱(39度5分)でダウン。前年同じような病状を体験した静江さんが、幸い良い薬を持っていて、W氏は1日で回復して(若いからね)、私たちもひとまずほっとする。
 ディレクターのK氏と回復したばかりのW氏を、昨年完成した水力発電所、村の2つのジェシタク神殿(一つは、本来全く不要なのに金が入るという理由で昨年建て始められ、すでに60万ルピーも費やされているのに屋根もできていない状態)、私が一番初めに建てた女性の共同沐浴場、上流の畑地などをに案内して、K氏、W氏のバラングル村の5日間の滞在は終了。5月19日、ボンボレット谷をざっと案内して、チトラールのマウンテン・インへ。お二人の国際便のリコンファームも、ペシャワール行きのエアー・チケットもマネージャがやってくれていて大助かり。熱いお湯のシャワーでみなさんさっぱりした後、夕方バザールを散歩。しかしチトラールの町はたいそう暑くて、ちょっとを歩いただけで疲れてしまう。
 20日の朝は快晴で、K氏、W氏のペシャワールのフライトも飛び、ペシャワールで乗り継いで、午後3時にはイスラマバードのホテルでリラックスされていたもよう。静江さんと私は、アルミ長持ちなどの買物があったのでチャーター・ジープでバラングル村へ戻る。

5月21日は休養。といっても、たまった洗濯はやらないと着替えがなくなる。電気がついてから、静江さんが丸山さんから預かったCDをインストール。どうにかインストールできたようではあるけど、まだ使い方がよくわからない。時間をかけて練習していくしかない。

 5月22日。多目的ホールと仕事場の土地は、私が14年前にトイレを建てるために買った土地なのに、ジャマットが「あそこは自分の土地だ。あの建物もアキコが住むだけなら許すが、NGOの活動として使うなら許さない」とわけのわからないことを言っているので、この際土地の件を明確にしておかないといけないと思い、親戚の人、村の人、ヤシールに立ち会ってもらって話をすることにした。始めのうちは感情的になっていたジャマットは取り付く島なしの状態だったが、間に入った人がなだめてすかしたら、「建物のある土地だけでなく、庭の方も全部アキコが使っていいと数年前に書類も作ってある。土地は俺が死んだら彼女のもの、彼女が死んだら俺のもの、両方死んだら兄さんのものだ。」と言い、4日後にこの言葉を承認するかどうか、また話し合いをするということになった。
しかしころころ話が変わるジャマットは、その直後ヤシールを呼んで、前と同じこと、つまり、私だけが使うのならいいが、他の誰も使うことはできないと言い換えたという。この土地の件を後回しにすると、今後の私がやっていきたい活動も思うようにできなくなるので、速やかに解決したいと思うが、相手が相手なので、そう簡単にはいかない。

 5月23~27日
 朝、ラジオ体操、伝七人参粉とハチミツ、ミルクティーと食パン(またはタシーリ)の朝食の後に、漢方薬という一連の儀式もこの数日間定着し、股関節の痛みが若干ながら減ってきたようでもある。加藤さんたちに付き合ってサイフラーさんのゲストハウスで取っていた食事も、パキスタン製スパゲッティ、パキスタン産ジャポニカ米などをメインに極力自分のところで作りようにする。
丸山さんたちやファウジアと協力し合って、目下考慮中であるカラーシャ伝統文化保存のプロジェクトの件、サイフラーさんに書類を見せて説明すると、いい話だと言うものの、積極的にアイデアを出してくれるわけではなくちょっともの足りない。もちろん、いくら頭の良いサイフラー氏でも、あの脳みそが破裂しそうな難しい書類を見てすぐには意見がでないのが当たり前かもしれないけれど。
このプロジェクトのことを考えながらも、多目的ホールの内装、特にキラン図書室の本棚作りもはじめなければならない。材料の丸太はすでに私の留守中にジャムシェールが山から下ろしてくれていたので、この丸太をアユーンの町に運んで、機械で平板にしなければならない。それには丸太を谷から持ち出す許可書をとらねばならず、許可書のためにジャムシェールをアユーンに使いに出すが、責任者がいなかったと戻ってくる。などなど、なかなか仕事ははかどらない。
静江さんは今回の滞在、残すところ数日というのに、パラルガーに一泊の山歩きに行った後に、風邪と細菌性下痢にかかり休養中。ジャマットの件は間に立ってくれている人が急用で留守となり、話はないまま。

5月28~29日
ジャマットとの話は私が目の前にいると、ジャマットが感情的になるので、私抜きで3人の使節団が彼と話会って、私のところに報告にきてくれた。私の言い分は、「これまでジャマットに返すからと言われて貸したお金も返さなくてもいい、私が買ったジープをジャマットが売った件も黙認するから、多目的ホールと仕事場の建物のある土地と牛小屋の土地の名義を私の名前にする。牛小屋のお金はすでに払っているが、土地代としてもっと欲しいのだったら、代金を払う」ということだったが、ジャマットは今度は、「アキコがあそこに住んで、何をやるのも勝手だが、彼女が亡くなったら、あそこは俺のもの。お金は1000万ルピーくれると言っても受け取らない」と言っているという。
死んだ後のことなど、どうなってもいいと思う部分もあるが、でもせっかく共同体のための活動のために作った空間が、教育のことや将来性を全く考えないジャマットのものになると、宴会場と化してしまうのがオチで、それはいくらなんでも残念だし、また、私が死ねばジャマットのものになるということで、彼から毒を盛られる(?)危険性もあり、日々を脅えながら暮らして行くのも嫌だから、ジャマットの言い分は飲めない。
いろいろ考えた結果、村の人たちの説得はジャマットには説得すら感じられないようだから、私たちの法廷結婚の手続きをしてくれたペシャワール高等裁判所で弁護士をしているカリッド・カーン氏に相談して、彼に村まで来てもらって、ジャマットに話をしてもらおうと決める。ジャマットの言い分は支離滅裂で、民主主義国家の法律に違反している言動で、私が折れて提案した条件を飲むことがジャマットにとっても得策だということを、カリッド・カーン氏なら説得できるだろう。ジャマットは権威に弱くもあるのだ。

5月30日
「アキコさーん。これからいってきまーす。」早朝5時20分、静江さんの声で起こされる。彼女はガイドのワジール・アリとサンドリガから山頂をめざし、山向こうのチトラール川に面するオルゴッチ村に下り、そこからジープでチトラールに来るというコースに挑むのだ。足の悪い私は、静江さんの荷物を持ってローカル・ジープで一足先にチトラールへ行っているという計画。
私のジープには、隣に病気の赤ん坊を抱いたグルコンザ、後席に腹痛を訴えるバラデッシュのおばあちゃんが乗り込み、別のジープには病気のライナーとアンダスグルが病院に行く所である。このところの病人ラッシュがうかがわれる。
インターネット・カードを買って、マウンテン・インのオフィスで久しぶりのEメール、チェック。全部読みきらないうちにラインが切れたら、再びつながらないので、諦めてバザールへ。語り部の録音のためのカセット・テープを5本買って、村に戻るマシアールにことづけ、私用の買物も済ませて、ホテルに戻る途中に、カラーシャの溜まり場の安宿をのぞくと、赤ん坊を抱いたグルコンザが座っている。
赤ん坊は薄目と口を開けたままぐったりとして眠っている。その目にハエがたかっている。状態は来る時よりも悪そうだ。病院で見てもらったというが、レントゲンを取ったのを見て、注射1本して、処方箋をくれて、ハイさよならだったらしい。近くに住んでいるのだったらいいが、こらから午後の日差しの暑い中、ぎゅうぎゅう詰めのボロジープで家に帰るだけで、赤ん坊はまいってしまう。具合が悪化して、また明日病院に連れてくるようになるのは目に見えているので、グルコンザにそう言うと、彼女も自分の子供の状態はよくわかるようで、「私もそう思って心配してるんだけど、この子のお父さんは私の言うことなど聞いてくれないし」と言うので、私がグルコンザのダンナさんに「もう1度医者に見せて、せめて1日入院させて様子をみるようにしよう」と話をすると、すぐわかってくれて、チトラール市民病院の小児科医が、午後3時からプライベートで開いているクリニックに赤ん坊を連れていく。
グル・ザール小児科医は丁寧に診察してくれ、赤ん坊は肺が悪くなっていて、熱もあるので、市民病院の小児病棟に入院ということになった。指示された薬と、水分補給がすみやかにできるように哺乳便、顔や体を拭くためのタオル、ミネラル・ウォーターなどを買い込んで小児病棟に。そこには昨日から入院しているムリャーの赤ん坊と母親のタウスビビがいたので、グルコンザも仲間がいてほっとしたもよう。夕方にはグル・ザール先生が検診にきてくれるときいているので、とりあえず私はホテルに戻る。
山歩きをしてきた静江さんは4時ごろにホテルに到着していた。病院まで行っただけで足を引きずっている私に比べると、静江さんは元気で足もあまり痛くないという。(うらやましい)サンドリガから頂上までは林が続き、歩くのにとても快適で、頂上付近ではボンボレット谷やバウック、ガンガワットとこれまで歩いたことのあるところが一望に見渡せて感動したという。私もいつか行ってみたいと思うが、それまでに股関節をちゃんとしとかねば。

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